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あなたは、どういう「乗り物」ですか?

最近はあまり刺されないのだが、小さいときに、野原で遊んでいて、ハチに刺されたことがある。

はじめて刺されたのは幼稚園ぐらいの頃で、すごく痛かったのを覚えている。しかし、そのあとで先生が、「ミツバチは人を刺したら死んでしまうのだ」ということを教えてくれた。

巣を守るために自分を犠牲にして攻撃するのだ、と。
 
ひとたび人を刺すと死んでしまうのだから、ミツバチはあまりむやみやたらと人を刺さない。でも、自分たちの群れに危機が迫ると、躊躇なく人を刺す。

自己犠牲の本能というか、「個」よりも「群」を優先する習性があるようだ。 
 
自分の命よりも、群れを優先するなんて。普通に人間として生きていると、信じがたいような感覚だけれど、それが本能として組み込まれているので、ミツバチからしたら自然な行動なのだろう。

リチャード・ドーキンスという生物学者の本で、「利己的な遺伝子」というものがある。生物の身体は、遺伝子の「乗り物」であって、遺伝子を残すために、生きているのだ、と。

僕たち自身は、何を残すために生きているのだろう? 

社会の中で生きる記号としては、例えば「名前」があるだろうか。「有名になりたい」という人がいるけれど、そういう人は、読んで字のごとく「名」が「知られている」、つまり、誰もが自分の名前を知っている状態を望んでいるのだろうか。

であれば、その人が欲しているのは、自分自身そのものではなく、「自分の名前の知名度があがっていること」を望んでいる、ということになる。

フォーカスしているのが、「自分自身」ではなく、「自分の名前」なのだ。
 
自分が運んでいるのは一体「誰」なんだろうな、ということも、たまに考える。

たとえば、どんなに学校では有名人であったとしても、学校の外に出たら、それは「誰」でもない。外国に行くと、周りに自分を知っている人が誰もいないから、「誰」かは一切わからない。どこかフワフワした気分になるのはそのためだ。

逆にそれで、海外に行くと開放的になって、急に態度が大きくなってしまう人もいる。

何かに傷ついたりしたとき、それは「誰が」傷ついたのか、というのは考えてみると面白いかもしれない。

たとえば、自分にそっくりそのまま見た目が同じな人が、どこかでボコボコに傷付けられたとしたら、それは一体「誰が」傷付けられたことになるのだろうか? 自分だろうか。

いや、自分はここにいて、傷ひとつついていない。しかし、どこかで、代わりにボコボコになった「自分」がいる。
 
あなたという存在は、いったいどういう「乗り物」ですか?

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