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仕事をしていない時間はありますか?

久々に友人とリモート飲みをした。ここ最近は、もちろん都内は緊急事態宣言で夜の飲食店はやってないし、昼間に食事に行くという手もあるが感染が怖いということで、リモート飲みしか選択肢がない。

だいたい、僕はどの友人に対しても半年に一回ぐらいの頻度で会うのだが、リモートでもなんでも久々に話して近況を共有するとそれなりに楽しめる。早く、気兼ねなく外で飲んだり食べたりできるときがくるといいのだけれど、これはこれで結構慣れてきた。
 
友人は、仕事が大変だということを話していた。休みの日でも、こまごまとした仕事を抱えているので、丸一日のオフがほとんどないのだとか。たまに完全な休みがあったとしても、それは平日のための気力と体力回復のために使ってしまうので、本当の意味で休んでる感じがあまりしないらしい。それは確かに大変だ。
 
僕も、最近は定時で仕事を終えることはほとんどないし、休みの日でも一切の仕事をしない、という日も少ない。残業というのは不思議なもので、たとえ1時間でも残業をすると、「仕事が1時間長引く」ことに加えて、「自由時間オフが1時間減る」ことを意味するので、実際の時間的損失は2時間以上、ということになる。

もしも仕事が1時間増えたら、気をきかして一日が25時間とかになってくれたら助かるのだが、一日というのは常に24時間で一定である。全く融通はきかない。


 
こうやって考えると、何をもって「仕事をしていない」ことになるのか、その定義があいまいになる。

少し前に芥川賞を取った村田紗耶香の「コンビニ人間」では、そのタイトルの通り、「コンビニで働くこと」に全身全霊を注ぐ人物が主人公で、その人は休む日も、「コンビニで働くため」の体力回復期間、という位置付けにして暮らしている。

休んでいるときも、実質的には仕事のために休んでいるのだから、「コンビニで働いている」状態だと認識しているらしい。まあ、これはフィクションの作品なので、そのようなやや異常な主人公のデフォルメされた人格を見て楽しむようにできているのだが、実際にそういう感覚でいる人が多くいるからこそ、あの作品があれだけ売れたのかもしれない。

「コンビニ人間は自分かもしれない」と思う仕掛けがあるのだ。
 
「仕事で使う資格や業務知識を仕事時間外で覚えるべきかどうか」という問題もこれに近いかもしれない。仕事で使うのだから、当然ながら仕事時間の中で覚えるべきだと思うけれど、資格や知識は必ずしもその会社の中でのみ活用されるわけではない。

転職してもその知識や資格は有効なので、広い意味で捉えるとその人の資産、ということになる。会社を辞めたあと、その知識や経験まですべて返上する、ということだったらアリかもしれないが、そんなSF的なことをやっている会社は存在しないだろう。


 
結局、仕事も自分のため、と割り切るしかない、という結論になる。自分のためになると思ったら続けたらいいし、ためにならないと思ったら変えたらいい。

それを前提とした社会に変わりつつあるけれど、逆にいうと、それは実力主義で、実力が伴わないものが雇用されないシビアな社会、ということになる。

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