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「みんなに勇気を与えたい」とは?

アスリートのインタビューなどで、競技に臨む際に「みんなに勇気を与えたい」といったことを言う人がいる。発言にケチをつけるつもりは無いのだが、それってどうなんだろう? といつも思ってしまう。

「競技を通じて人々に勇気を与える」ということ自体はとても素敵なことのように思える。しかし、ちょっと辛辣かもしれないが、あなたのプレーで勇気をもらえるかどうかは受け手次第ではないだろうか、と思ってしまうのだ。

小説家が本を出したとき、「手にとってもらえたら嬉しいです」ぐらいだったらわかるが、「この小説で感動を与えたい」「勇気を与えたい」みたいなことを言われると、感動の押し売りになり、興ざめしてしまう。それと同じようなことがアスリートにも言えるのではないか、と思う。

僕があまりスポーツ全般に関心がないからかもしれないが、スポーツを見て「勇気をもらう」ことはあんまりない。もちろん皆無だとは言わないが、少なくとも思い出せる範囲では経験がない。

スポーツではほぼ唯一、ボクシングの井上尚弥選手だけは、ここ最近の試合は熱心に追っている。どんなに自分が圧勝だという評判であったとしても決して油断せず、全力で練習に打ち込む姿は尊敬に値する。しかしそれをもって「勇気をもらえるか」というと、ちょっと違うような気もする。

人のプレーを見て勇気がもらえることがないとは言わない。スポーツバーなどで騒いでいる人たちは「勇気をもらった」とよく叫んでいる。また、例えばパラリンピックの選手など、障害を乗り越えて頑張っている姿は胸を打つものがあるだろう。

逆にあんまりにも人間離れしたパフォーマンスを出している人は、「勇気をもらえる」とかそういった次元にはいないのかもしれない。そういう意味では、井上尚弥選手も人間味がないほど強いので、勇気がもらえるかというとちょっと違う、と言う感じがするのだが。

そもそも、超一流のアスリートはあまりそういうことを言わないような印象がある。大谷翔平や藤井聡太などがそういうことを言っているのを聞いたことがない。

超一流のアスリートは、他人からどう見えるかはあまり気にせず「自分が最高のパフォーマンスを出すためにはどうしたらいいのか」ということを常に考えているような気がする。ファンを意識し「人に感動を与えたい」と発言する人は、アスリートとしてはトップクラスではないのではないだろうか。

どんなスポーツでもそうだと思うが、人々の関心があるのは「最高峰の戦い」だ。しかし、最高峰の戦いに挑戦できる人はほんの一部なので、多くのアスリートはあまり注目されない舞台で戦うことになる。

プロであれば自分の試合を見てもらうことで価値が生じるものなので、あまり人から注目されないと「自分はなぜこれをやってるんだろう」と自問自答してしまうのではないだろうか。その結果、「自分は見ている人に勇気を与えるためにこの競技をやっているんだ」というように自己解釈し、そういう結論に至ってしまうのかもしれない。



自分が一流ではないので、自分が最高のパフォーマンスを出すことではなく、見た人が勇気をもらってくれればそれでいい、という結論に落ち着く気持ちはわかる。が、それを言ってしまうと感動の押し売りになってしまうし、自分が他人からどう見えるかを考えているアスリートはなんか違うような気もする。

アスリートに対し、自分のパフォーマンスのことだけを考えろというのもまた酷な話かもしれないが、構造としてはそういうことなんじゃないかなと思う。

誰にも注目されないアスリートは何のために試合をするのか。究極的には、「自分のため」で良いと思うのだけれど。プロである以上、それだけではいけない、という心理も働くのだろうか。

これについてはいろんな意見があるような気がする。あなたはどう思いますか?

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