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国民性、県民性、ってなんですか?

以前は海外を相手に仕事をしていたので、たまに仕事関係の人を日本に招聘し、企業訪問や観光などのアテンドをする、ということをやっていた。主にバングラデシュやミャンマーなど、東南アジア諸国が多かったのだが、自分が海外に行くパターンとは違った、新鮮な驚きがあった。

旅行などでも日本に来たことはなく、来日するのは本当にはじめて、という人が多かったので、日本に来た時の衝撃レベルを目の当たりにすることができた。ミャンマーの人は日本の地下鉄に衝撃を受けたようで、「こんなものは50年経っても、ミャンマーにはできないだろう」などとしみじみ語っていた。

バングラデシュ人は、とにかく時間通りに電車が来ることに驚いたらしい。あと、東京駅では、必ず誰かが走っており、「なぜ人々は走るのか?」と聞かれた。その質問自体が衝撃的だった。

駅で走る人はなぜ走るのか。えらく哲学的な疑問である。当然、電車に乗り遅れそうだから走るのだろう。しかし、バングラデシュ人に言わせると、「そんなもの、別に遅れればいいじゃないか。もっとリラックスしろよ」ということらしい。実際、バングラ人と仕事をすると、驚くほど遅刻をされる。1時間、2時間の遅刻は別に珍しくはない。

そう書くと、とんでもなく時間にルーズな国民性だと思われるし、事実そうではあるのだが、自分もバングラデシュに行った際、アポイントに4時間遅刻したことがある。

バングラデシュの首都・ダッカは、東京並みに人口が集中する大都市なのだが、信号というものがなく、常に大渋滞をしているので、とにかく時間が読めない。

ダッカの雑踏(ここまでの混雑はなかなかないが)

イベントごとや、雨など天候によっても相当変わるので、現地の人でも時間を読むのは簡単ではない。なので、アポに4時間遅れることも、「まあ、そういうこともあるよね」という感覚らしいのだ。

ちなみに、アポ先は日本人だったのだが、4時間も遅刻してきた僕に対して、「まあ、そういうこともあるよね。お疲れ」という感じで、特に気にした様子もなかった。

つまり、日本人といえども、この土地で生きていると、だんだんそういう感覚になっていくものらしい。なので、「なぜ駅で走るのか」という疑問につながっていくのだろう。

「国民性」という言葉があるが、「社会」がそれを作っているのだと思う。決して人種が作っているわけではないのだ。中国で2年働いたときもよく感じたことだが、日本に行かず、中国で日本語を勉強して流暢に日本語を話す人はたくさんいるが、やはり日本にある、日本の会社で働いていた人は全然違う。その「土地にいる」ことによって、だんだんと染まっていくところはあるのだろう。

時間にルーズな人が多い国で生まれた人は、時間に厳しい人の多い国に行くと、当然「時間にルーズな人」と認識される。しかし、その状態で数年過ごしてから自国に戻れば、いつのまにか「時間に厳しい人」になっている、ということだ。

人間は非常に適応力が高い。相互に適応し合い、どこかで落ち着いたポイントが「国民性」につながっていくのだろう。「県民性」なども同じ理屈である。

優秀な人になりたければ、優秀な人が多い環境に身を置いたほうが早い、ともよく言われる。古くから言われているようなことではあるが、メカニズムがよくわかった。

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