資格をとれば幸せになれるのか?
世の中には、資格をとるのが目的化している人、いわゆる「資格マニア」みたいな人が一定数いる。大人になってからも「勉強好き」という人たちの中には、資格をとるために頑張っている、という人も多いのではないだろうか。
何かやりたいことがあって、それに向かって資格を必要としているのであれば、それに対して努力するのは素晴らしいことだと思うのだが、目的なくいろんな資格をとるのが趣味みたいになっている人もいる。少しそれについて考えてみる。
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前提として、当たり前のことだけれど、資格は仕事をはじめるための準備にすぎない。
登山でたとえてみると、資格というのは「登山用具」みたいなものだと思う。登山用具がないと登山はできないので、当然買い揃える必要があるけれど、登山用具を買っただけの状態では、まだ登山をしたことがないわけだから、それだけでは不十分、ということになる。
少なくとも、周囲の人は「まだ登山経験がない人」とみる。なので、「登山家」だとみなしてもらえないし、登山に関連する仕事なども回ってはこない。
資格マニア的に、いろんな資格をとろうとする人は、登山用具を買ったあと、登山をするのではなく、ダイビングの用具を買いそろえているようなものだと思う。ダイビングの用具も、もちろんダイビングをするためには必要なのだけれど、登山とダイビングの用具を買っても、どうするの? ということになる。
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2年ほど前に転職活動をしたとき、そういえば資格ってほとんど持ってないな、と思った。持っているのは自動車免許だけで、あと書けるのはTOEICの点数ぐらいだ。
それで転職活動をやってみたわけだけれど、それで不利だったかというと、うーん、という感じである。一長一短、というところだろうか。資格を持っていればそれだけで採用される仕事もあったのかもしれないけれど、資格をもっていたら、それゆえに広がらない幅、みたいなものもあったのではないだろうか。
たとえば、一級建築士の資格を持っている人に、全く違う分野の仕事をやらせよう、みたいなことにはならないわけで。資格によってその人の色がついてしまうというか、選択肢が狭まる、みたいなこともあるように思う。
やっぱり大事なのはなんといっても実務経験で、「どういうことに取り組み、どういうことを達成したのか」が評価の中心になる。そこで得られた知識や経験が問われる。そもそも、資格取得のために得られる情報は決まっているわけで、その勉強をした人は等しく同じ知識を持っていることになる。
しかし、実務を通じて得た経験や知識というのはその人固有のものになるので、そういうものが企業としても求めるものになるのではないだろうか。資格をとるのが趣味で、それが最高に楽しい、という場合はいいのだけれど、他者からの評価としてはどうだろうか、と。
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世の中には結構な年齢になっても司法試験などに挑戦する人がいるけれど、実際、どうなのだろうか。挑戦すること自体は素晴らしいことだと思うけれど、とったあとのビジョンはあるのだろうか。それなりの年齢になって、弁護士一年生として再出発したとしても、なかなか厳しいものがあると思うが。
ソフトウェアエンジニアリングの世界でよく言われる言葉で、「銀の弾などない」という言葉がある。
それさえあれば万事解決、という魔法の弾丸などない、ということだ。難しい試験に合格すれば一発逆転、人生が好転する、みたいなことは基本的にない。
若くして司法試験にパスする人は、そもそもその人のポテンシャルが高いからそういったことができてしまう、というだけのことで、何も資格がなくても周囲から高く評価されるだろう。その試験に合格しさえすればオーケー、というわけではない。
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資格についてはいろいろと考えてしまうが、これを敷衍させて考えてみると、会社の役職なども基本的には同じである。係長、課長など、会社組織にはいろんな役職があるが、それに就いただけで部下が全員言うことを聞く、というわけではない。
新任で年下の上司というのはなめられるので、まったくいうことをきいてくれないケースもある。
島耕作シリーズの「相談役 島耕作」で、風花凛子という人物が社長に抜擢されるものの、若くして社長になったために周囲からなめられ、一切仕事が進まない、というのが描かれる。社長ですらそうなのだから、それ以下の役職ならいざ知らず、ということである。
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