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現代社会の「遺跡」は未来に残るのか?

近々旅行に行く予定があるので、その準備をしている。

我が家では大体年1・2回は旅行に行く習慣がある。旅行プランを立てたり、宿や交通機関を手配するのは自分の役目だ。そういう計画を立てるのが好きなタイプである。

大体の目的地とその周辺でやることを決めて、Googleのマイマップにちりばめていく。それを見ながら、どういうルートで行動するかというざっくりとした計画を立てる。

基本的には情報収集はネットで済ますことが多いけれど、1年ほど前に四国に行ったときはガイドブックを買った。もちろん、載っている情報はネットにあるものと大きく差があるわけではなかったけれど、よく編集されていて、割と重宝したように思う。

とはいえ、観光地とはいってもなかなか真新しいものはそうそうないものだ。神社仏閣や城などといったものは全国どこにでもあるので、一見するとだいたい同じに見える。

なので、今回はちゃんとその土地の歴史を学んでいくのが良いのではないかと思い、下準備に歴史の勉強も含めている。福島県の会津若松のほうに行く予定なので、会津の歴史を少し勉強した。といっても、割と近代寄りの話で、明治維新の際の戊辰戦争・東北戦争が中心だ。

東北戦争において白虎隊が自刃したという有名な話があるので、そういったことの背景も勉強した。何となく断片的に聞いたことがあっても、あらためて体系的に背景を知ると面白いものである。

こうやって歴史を調べていて、素朴な疑問が浮かんだ。それは、「土地と結びついた歴史」というのは近代以降はかなり少ないのではないかということだ。

それこそ明治維新の際の戊辰戦争の爪痕などは、歴史の遺跡としてはほぼ最後発に近い。それ以降ももちろんゼロでは無いけれど、やっぱり明治以前の時代の方が歴史の遺跡のような形で残存しているような気がする。

なぜなのかを考えてみたのだが、明治以降、特に昭和以降は全てがバーチャルの世界に移行したからではないだろうか。戦争によって領土を広げるという発想ではなく、ビジネスによって戦線を拡大していく。儲かっている会社も、わかりやすいモニュメントなどがあるわけでもない。すべてはバーチャル空間で行われていることなのだ。

いわゆる大航海時代、昔の植民地政策を大英帝国などが行っていた頃は、その当時の「国」が今でいうところの「企業」という感じがする。昔は貨幣による経済活動というよりは、戦争によってどれだけ具体的な領地を広げられるか、みたいなところで海外進出をやっていた。

戦争は、事業だった。だから、それにまつわる遺跡もたくさんあるし、歴史が刻まれていく。

近代以降、第二次世界大戦までは戦争が大規模に行われていたが、現代では戦争は減っている。今の社会の戦争の方法はビジネスが主体だからだろう。

銃で人を殺すのは人道的ではないので、そういうやり方で自らの利益を拡大するのではなく、具体的なビジネスを展開することでお金を稼ぎ、そのお金で自分の領域を広げていく。

儲かっても、何か具体的な領土を持っているわけではない。だから、ビジネスの領域が広がるけれど、土地を広げるという話ではないのだ。それこそお金というバーチャルなものが成果なので、バーチャルなもので人間は満足するようになったということなのだろうか。

もちろんこれは人間の社会の進歩である。戦争によって人が死ななくて良くなり、むしろビジネスでは人々は死ぬどころか、サービスを享受することができるようになった。ただ、遺跡みたいなものは残らなくなってしまった。

決して悪いことではないのだけれど、1000年後の未来では、現代社会はかなり「バーチャルなもの」になっていて、具体的な遺跡などで確認できないものになっているのではないだろうか。

まだ残っている遺跡、史跡にいまのうちになるべくたくさん行って、そこから学べるようにしたい。

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