現実よりも精巧なフィクションはない
最近、以前よりはフィクションの作品を見なくなったな、と思う。映画にしても、漫画にしても、そして小説にしても、以前よりは見る量が減った。
つまらないというわけではなくて、もちろん見る価値のある作品は多くあるのだけれど、自分があまりそれにハマれなくなった、というのが大きいだろうか。
フィクションで展開される世界は、現実世界をシンプル(単純)にしたものだと思う。どれだけシンプルにするかは作品によって異なるが、「名作」とされる作品であればあるほど、現実の鏡写しというか、現実世界を投影しているものになると思う。
これは、リアリズムに限らず、ファンタジーの世界においてもそうで、一見すると荒唐無稽の設定に思えるものでも、物語が重厚になっていくにしたがって、しだいに人間模様が現実世界の鏡写しのようになっていく。
小さい頃は、子ども向けのアニメのようにシンプルで単純な物語を好む。形式で言うと、悪いやつがいてそれをやっつける、みたいな勧善懲悪の話。少年漫画だと、たとえば週刊少年ジャンプでは「友情・努力・勝利」がキーワードとされているが、それらだけが現実世界を構成している要素ではないものの、現実世界の一部を投影したものだといえる。
だんだん年齢があがり、社会の仕組みがわかってくると、そういった単純なストーリーだけでは満足できなくなって、重厚なものを欲するようになる。最近の漫画やアニメの設定やストーリーが妙に凝っているのは、漫画やアニメを大人が読むようになったため、大人が読んでも面白さを感じてもらえるように、少し複雑性のレベルをあげているからかもしれない。
当然ながら、そういった大人向けの漫画やアニメというのは、まだ世の中のことがそれほどわかっていない子どもたちにはウケがよくない。複雑性のレベルが高すぎるのだ。
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現実よりも複雑で、現実よりも精巧なフィクションはない。いかに設定が作り込まれていたとしても、現実を超えるものはありえない。
現実世界は、いわゆる自然科学の分野で有史以来研究しているわけだけれど、どれだけ研究してもわからないことが出てくる。つまり、複雑性に面白さを感じるようになると、フィクションよりも現実のほうが面白いことに気づく、ということだろうか。
つまり、現実世界の面白さを理解したら、それはフィクションを超えるのだろうか、ということだ。
自分なりに理解した現実を、シンプルに体現するために創作をしたい、と感じることはあるかもしれない。自分が理解した複雑な現実をそのまま再現するのではなく、一部分を切り取ったり、強調したりして、独自の世界観を生み出す。
´であれば、インプットとしてフィクションを必要としなくなっても、フィクションを作りたい、という欲求は途絶えないかもしれない。
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現実がつまらないことはない。現実はとても複雑で、面白いのである。その面白さに気付かされるための架け橋の役割として、フィクションが機能する、ということはあるかもしれない。
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