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サクラのバイトの思考実験

近所に、いつも混雑している人気のパン屋さんがある。食べてみたいなと思ったので、朝っぱらから奥さんに買いに行ってもらった。

開店時間はかなり早朝なのだが、いつも混雑しているからということで開店よりちょっと早めに行ってもらった。しかしやはり人気の店なので、開店時には6人ほどが並んでいたらしい。
 
人気のパン屋さんであることは知っているので、その行列はもちろん「本物」なのだろう。でももし仮にその列が「サクラ」だとしたらどうだろうか、ということを考えた。

こんな早朝にわざわざ並ぶというサクラのバイトがあったとしたらどうなるだろうか。開店時間はかなり早朝なので、自分だったら、それ相応のバイト代をもらわなきゃ嫌だ、と思った。

2021年10月現在の東京都の最低賃金は1041円らしいので、まあ時間給にして1500円は欲しいかな、と思った。もちろん、そこに「出勤」するためのコストもあるので、2000円ぐらいはないとやっていられないだろう。実際のところ、2000円でもやりたくはないと思うが、そこは目をつぶる。
 
仮に2000円だったとしても、6人並べるためには1万2000円のコストがかかる。わざわざそんなところにコストをかけるわけがないので、つまり「サクラ」はコスト的にも考えにくい、ということになる。

もちろん、本当にサクラであるということを疑っているわけではなく、これは他愛もない思考実験である。


 
しかし、こういう考え方をしてみてはどうか、と思った。つまり、「サクラのバイト」ではなくて、「他の飲食店の人がサクラをしていたら」。つまり、一種の物々交換のようなもので、「あなたの店のサクラをやってあげるかわりに、うちの店もサクラしてよ」という取引だったとしたら。

そうなると、もちろんこの2000円という金額は必要なくなる。サクラの対価をサクラで支払う。原価といえば、それに要する時間ぐらいしかないので、比較的容易に成立するのではないか、と思った。

つまり、「お金」というものが介在するとコストが高くて成立しない案件が、「お金」ではなく「物々交換」だったら成り立つケースも考えられるのでは、ということだ。
 
一般的な解釈では、古代社会では、「物々交換社会」がまず存在して、そのあとで「貨幣」が誕生した、というような説明がなされることがある。

しかし、これに疑義を唱える学説がある。つまり、「物々交換社会」などは存在せず、「貨幣」というのはかなり早い段階から存在していたのではないか、という説だ。

例えば魚を獲る漁師がいたとしたら、魚と何かを交換して生きていくことになるわけだが、生きるための生活必需品を揃えるためには、いちいち魚が欲しい人を探してこなくてはならない。魚だったらまだいいが、もっとマニアックなもの生産している人だったら、さらに「買い手」を探すことが難しくなるだろう。

つまり、実際のところ、物々交換のみで成り立っていた社会というのは想像しにくいのだ。現在では電子マネーが一般的に普及していることからもわかるように、貨幣というのは、実態を伴う必要すらない。

しかしその貨幣の存在によって、モノやサービスを「貨幣」に「変換」することが可能になり、それが経済の基礎となったのだ。


 
でも、先の「サクラ」の思考実験の例に見られたように、貨幣が介在すると成立が難しいことが、サービス同士の交換、モノ同士の交換であれば成り立つものもあるのではないか。

農家だって、作りすぎで廃棄してしまう農作物があり、飲食店だって、フードロスでタダで捨ててしまう食材がある。田舎では、農作物の物々交換が行われていたりする。

こういうことを考えるとき、つい「ポイント」や「お金」で換金することを考えてしまうのだけれど、インターネットの力でなんとかマッチングして、広義の「貨幣」とはまた別の方法で交換ができないか……ということを考えてしまうのである。

つまり、漁師が獲ってくる「魚」を、貨幣にせず、魚のまま、インターネットを使って交換の材料にできないのか、ということである。
 
コミュ力の高い人なら、例えば「次回おごってもらうから今回は持つよ」とか、「これは貸しだからな」といったように、貨幣以外の取引を成立させてしまう。

なんだか、「豊かな社会」の実装のためには、こういう部分にまだ改善の余地があるような気がしている。

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