見出し画像

わからないから書く

先日、「推し、燃ゆ」という作品で芥川賞を受賞された宇佐見りんさんが、授賞式で話しているのをテレビで見た(普段テレビは見ないが、最近は朝のNHKは見ることにしているので、たまたま見ることができた)。

「次に書きたいことはもう決まっています」と彼女は答えていた。なんてことのない言葉だけれど、この言葉には、個人的にちょっと引っかかるものがあった。
 
「書きたい」という欲求って、いったいどこからくるのだろうか。「書きたい」という言葉がもし本心なのだとしたら、彼女の中には、「書く」という内発的な動機がある、ということになる。

もちろん作家なのだから、書いたものが本という形になって販売され、印税として自分の収入となるのが「目標」なのだろうけれど、彼女は、「書きたい」と思えることがあり、本当にそう思っているんだろうな、と感じた。
 
もしも、考えただけで、頭の中で一字一句まで正確に文章として連想することができる人がいたら、その人は「文章を書く」必要はないだろう。それは、頭の中に浮かんだ文章を紙の上に書き写す(もしくは、パソコンに打ち込む)「作業」に過ぎず、本人の中には、なにひとつ新しい発見はない。

おそらく、この世のほぼすべての人々はそうではないはずなので、「書く」という行為は、自分の中に何かを発見する行為に他ならないだろう。だからこそ、人は「書く」のだ。ひとつは、読んでもらうために。

そしてもうひとつは、書くことによって、自分自身の思考を前進させるために。


 
だから、作家の口から「書きたい」という欲求が自然と出てくる、というのは素晴らしいことだな、と思う。当たり前の話だけれど。書く過程で、それまでは思いもしなかったことにぶちあたる。書きながら、それまでに書いた内容を受けて、どんどん進化していくのだろう。

僕も、そんな感じで文章を書いているような気がする。毎日更新しているこの文章は、ぼんやりと自分が考えていることではあるけれど、自分が考えていることそのものではない。頭の中では、もっとぼんやりとしている。

書く過程である程度整理されて、文章の連なりとして出てくるのだ。考えているだけでは結論がなく、書いてはじめて結論が出てくる、というようなことも多い。


 
もう僕は一年近く、小説を書いていない。ちょっと書きかけた時期もあったけれど、止まってしまっている。もっとも、書き始めないと、「書きたい」という欲求も湧いてこない。「書きたかった」ものはあるけれど、もうそれは過去の自分の中に埋没してしまった。
 
自分がわからないことを書きたい。自分がわからないから、それをわかるために、書くのだ。だから、書くべき物語は「いま、自分がわかりたいこと」というのが大原則となる。
 
なにか「書きたい」題材はないだろうか。あればそれに越したことはないけれど、別になくたっていい。

「わからないから、書く」というのは、動機としてはひどくまともで、建設的であるように感じる。

サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。