見出し画像

目標が必要、という幻想

noteをチェックしていると、「○○日間連続で更新しました」みたいな感じの記事を見かけることがある。もう、ひとつの記事ジャンルとして成立するのではないかと思えるほどの記事量で、特に意識しなくても自然と視界に入るレベルになっている。

「○○日間連続更新した」いうのが「意味のあるコンテンツを配信した」という意味で言っているのならば、その「連続更新した」ということだけを伝える記事には本当に意味があるのか? などとちょっと意地悪なことを考えてしまうが、それはまあさておき。
 
そういった記事を読んでみると、やたらと「連続更新した」ということに達成感と充実感を感じていて、ここまで続けてこられたのは読んでくれた人がいたからだ、みたいなことを書いているのだけれど、そういうことを感じる人はやっぱり長く続けていくのは難しいだろうな、と思ってしまう。

読んでくれる人がいるから続けている、という人は、読んでくれる人がいなくなったら更新をやめてしまうのだろうか。

僕のフォロワーさんでも、PV数が減ったからモチベーションが下がった、という人がいる。一般的に見れば十分に多いPV数ではあると思うのだけれど、人はやっぱり何事も相対比較で見るようになるので、「以前よりも少ない」というだけで「少ない」と認識してしまうのだろう。

であれば、常に上昇していかない限りモチベーションが維持できないわけで、それは長く続けるうえではかなり脆弱なマインドセットなのではないか、と思う。まあ、継続することだけがあり方ではないから、人それぞれでいいのかもしれないけれど、連続更新に対するモチベーションのことを言うならば、むしろ逆ではないか、ということを思うのである。


 
とはいえ、noteを読む立場からすると、僕は毎日更新する人がわりと好きである。たまに気合いの入った文章を更新する人よりも、毎日どんな内容であれ、とりあえず更新する人の記事を読みに行きたくなる。
 
こういってはなんだけれど、日常でのなんでもないことを、Twitterでつぶやく分量よりも少し長いぐらいの分量で投稿している人も多い。決して悪い意味ではないのだけれど、たまに、本当に何も内容がないときもある。それでも、毎日何かしらは更新される。

「続けるためのモチベーションはなんですか?」というのは、何かを長く続けている人によく聞く質問だけれど、最強なのは「モチベーションがなくても続けられる」ことだと思う。モチベーションがない、というのは、目標もなく、目標を達成した時の達成感もない、ということだ。達成感なんてものに頼らずに、淡々と続けていく。それぐらいの緩さで楽しんでいくのが一番だと思う。
 
結局のところ、本当に長く続けられて、身になるのはそういう取り組みなのかな、と思う。モチベーションがないと続けられないものは、やっぱりどうやったって長くは続かない気がするのだ。
 
目標もなく、ゆるく続けるのが一番だと思う。

長く続けるには目標がなければならない、というのはただの幻想だと思う。

サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。