小さなニュースに興味はありません
日々新聞を読んでいるのだけれど、毎日新聞を読んでいると、世の中を大きく左右するような規模の大きなニュースには関心が向く一方、細かいニュースにはあまり関心がなくなっていくような気がする。
一般的な社会面の記事、たとえば殺人事件などはほぼ興味がない。こう言うとやや不謹慎かもしれないけれど、日本には1億人を超える人間が住んでいるわけで、ちょっと頭のネジが外れた人も一定数いるだろう、と思っている。むしろ、殺人の抑止力としては人間の目に見えない「法律」しかなく、そんなものでよく抑えられているな、とすら思う。
やや極端な意見かもしれないが、ちょっとした人間のバグというのをわざわざニュースとしてピックアップする必要はあるのか、などと思ったりするわけである。それならば、「道路でおばあさんを助けた」みたいな話だって取り上げてもいいのではないか。まあ、そんなのに誰が興味を持つんだ、という話ではあるけれど。
それと同じように、個々の企業の取り組みなどにもあまり関心はない。以前は、むしろニュースを見るというのは個々の企業の取り組みやサービスの革新性などを見て、「こういう素晴らしいサービスがあるのか、勉強になるなぁ」などと考えていたのだが、最近はちょっと関心が薄れてきた。
いかにそれが革新的な発想のサービスや製品であっても、いつかは模倣され陳腐化してしまうものなので、なんだか虚しいな、ということを思うのである。
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最近、スパコンの「富岳」が4年連続で世界最速の性能を記録した、というニュースがでた。日本人として誇らしく感じる一方、すでにアメリカや中国では富岳を上回るスペックのスパコンを開発中であり、近い将来、追い抜かれる可能性が高いという。もちろん、技術革新というのは果てしないものなので、そうやって抜かれたり追いついたりして前進していくものなのだけれど、なんだか息苦しさを感じる。
それと似たような話で、一般的な企業においても、「売り上げ」や「利益」を追い求めるのもなんだか虚しいな、と思う。所詮、それは数字でしかなく、いつかは誰かに抜かれてしまうものだからだ。
虚しいと言うより、儚いといったほうが正しいかもしれない。
ニュースは大きなものであるほうが面白い。大きなニュースは、それ自体ではあまり動きが見られなくとも、世の中全体に影響を与えているからだ。「売り上げ」の多寡だけで比較をする「競争」ではなくて、まるで群雄割拠の陣取りゲームのようなものが存在する、というのがわかって面白いな、ということを考えたりする。
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たとえば、EV車の代表的な存在であるテスラ社は、一般的にはEVメーカーとして認識されていると思うけれど、社名の由来である「ニコラ・テスラ」という科学者は電気を専門にしており、本質的には「電気の会社」だというところが面白い。
現代の科学において、電気を大容量に貯めておく物理的な方法がないので、電気というのは発電所が必要な分を、その都度発電所で作っている。しかし、貯めておくことができないので、たとえば夜間に作られる電力は無駄になってしまう。
そこで、揚水発電といって、水をポンプで汲み上げて、あとから流して再発電したりすることに使われたりする。しかし、もちろん効率は悪い。そこで、テスラ社のEVのバッテリーに夜間充電しておけばいい、というソリューションが生まれる。
何千台、何万台とテスラ車が存在していれば、世の中のテスラ車全体で「バーチャルな電池」とみなすことができるわけだ。それがもっと発展していけば、テスラから「電気を買ったり」する時代がくるかもしれない。
単なる「EV車」という枠組みから外れて、既存の会社では到底真似できないことをやり、ゲームのルール自体を変えてしまうポテンシャルを秘めているわけだ。
顧客から考えてビジネスを組み上げるのも大事だとは思うけれど、そうやって長期的な構想をもって、陣取りゲームみたいにコトを進めるビジネスもあるんだな、と。
新聞を読んでいて、常にそういったものばかりが出てくるわけではないけれど、そういうのもあるんだな、と思っている。
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