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幻想としての「負け組」

岡田斗司夫のYouTubeチャンネルが好きでよく見ているのだけれど、昔の動画では、よく人生相談みたいなこともコンテンツとしてやっていた。

岡田斗司夫の人生相談の動画は、なかなか辛辣なことをストレートに言うので、興味深く見ている。
 
その中で、文筆家としてやっていきたい男性に対する動画があった。その男性は、50代なのだが、書いても書いても芽が出ず、可能性を信じてくれた嫁さんと子どもにも申し訳がたたない、どうしたらいいでしょうか、という切実なお便りだった。
 
それに対して岡田斗司夫は爆笑して、「これが35歳だったら、ギリギリわかる」と言った。35歳でその状態ならまだ取り返しがつくけれど、50でそれだったら、もうダメでしょう、みたいなことを言ったのだ。

一方で、嫁さんと子どもがいる時点で、ある意味では「勝ち組」なんだから、それでいいじゃない、というようなことも言っていた。
 
岡田斗司夫曰く、文筆家や、役者や、漫画家のように、「芸、または芸術で食べていく」人には、明確に「勝ち負け」があるのだ、という。世間一般にも、「勝った、負けた」というのが伝わりやすい。

一方で、一般的な会社員の場合は、「勝ち負け」というのは見えにくい。霞ヶ関の官僚や、大手町のサラリーマンは「エリート」かもしれないが、そのエリートの中でもさらに上下があるのだろう。

一般の人々は、そういうのとは無縁の世界で、ただ日々もくもくと働いているはずだ。人気商売の人々の場合は、もっと露骨に、もっとわかりやすい形で勝ち負けが浮き彫りになる。

岡田斗司夫は、50になっても芽が出ていないような場合は、明らかに「負けて」いるでしょう、と断言していた。

自分のことを振り返ると、少しこのことについて考えさせられることがある。

高校生ぐらいの頃は、漠然と小説家になりたいと思っていて、たとえば文学新人賞でも取って、プロとしてデビューすれば、それだけで周囲が称賛してくれて、「勝ち組」に入れるのか、と思った。

しかし、幸か不幸かそのようなことはなかった。しかし、仮にその時点で賞をとっていたとしても、たったそれだけのことで「勝ち組」になれたかどうか。

勝負の世界というのは過酷で、一度勝つことだけでも困難なのに、世界に残るためには、勝ち続けなければならない。高校生の頃好きだった作家で、いまだにコンスタントに新刊を出し続けている作家がどれだけいるだろうか。

作家として活動を続けられている、そのほんの一握りの人が「勝ち組」で、あとはみんな「負けて」しまっているのだろうか?
 
僕は、「勝ち組、負け組」というのは、まだ勝っていない人たちが抱いている、「幻想」のようなものだと思う。本当は、そんなものは存在しない。

そのカテゴライズだと、大多数の人々は「負け組」で、つまり、たいした違いはないのではないだろうか? 「勝ち組」の人だって、勝ち続けなければ「負け組」に転落するのであれば、「負ける」ほうがむしろ普通、とは言えないだろうか。

勝った負けた、というところからは、なるべく離れたところでいたい、と思いつつも、ちょっと片足を突っ込んでいたい。自分としては、そういう立ち位置になりつつあるし、それを望んでいるような気もする。

こだわらないのが一番なんだろうな。

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