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価値を探す

最近、休日の朝にモーニングを食べるために奥さんと散歩をすることが多い。吉祥寺の駅の近くのまで出かけたりすることもある。

こういう繁華街に行くと、たまに常軌を逸したレベルの長い行列に出会うことがあり、これは一体何の行列なのか、とそのたびに驚く。大抵、そういうものを見かけたら、あとでネットで調べたりしている。


 
有名な店に行列を作るという行為は、自分からみればなかなか不思議な光景だ。多分、提供される料理が特別なので行列を作るのだと思うのだけれど、何がそんなに違うのだろうか。

たとえば、北海道の漁師町でしか食べられない貴重な食材がある、とかだったらわかるが、吉祥寺の街中で特定の店舗だけが特殊なルートを確立してるとはちょっと考えにくい。つまり、行列ができる店というのは、もちろん希少な食材を使っている可能性もあるが、何か別の要因によってそれだけの人気を博していると推察することができる。
 
例えば、特殊な牛肉を使った料理が提供されているとする。仮にそれがかなり高級な食材であったとしても、当たり前の話だが毎回食べる個体は異なる。一度食べておいしいと思ったものでも、次に行って食べたときにはまた別の牛を食べているわけだ。厳密に言うと味は毎回違うはず。

それでも行列に並ぼうと考えるのは、みんなが評価しているようなおいしいものが提供されるであろうと期待しているからであり、いちど食べたことがあるものならば次も前回食べたのと同じような味なのであろうと期待するからである。その期待の源泉となるものは、その店の信用(期待に値する品質を提供できること)であり、その信用がブランドだと見ることができる。
 
ブランドの語源は、「焼印」だ。牛や豚などに焼きごてで焼印をすることで、特定の人間がそれを育てたという証明をするわけだ。

焼印そのものに価値があるのではなく、その焼印の持つ「信用」に価値があるのだ。


 
ブランドは、貨幣の成り立ちとも密接な関係がある。中世のヨーロッパでは金や銀などが貨幣として流通しており、例えば10グラムの金が肉と交換できる、といったように取引がされていた。

しかし、10グラムの金を硬貨として使用していると、当然ながら時間が経てばすり減り、9グラム、8グラムと目減りしていくこともある。でもいちいち取引のたびに重さを計るわけにはいかないので、コインに「国家の刻印」をして、この刻印があるものはたとえ10グラムなかったとしても、10グラム分の金だと証明する、という工夫が生まれた。これが貨幣のはじまりである。

つまり、それそのものの価値を推し量るときに、「本質を見る」のではなく、「刻印を見る」という簡易的な手法として誕生したわけだ。

現代の貨幣では、「日本銀行が1万円の価値があると言っている」のが一万円札、ということになる。この考え方はどんどん広まり、今では貨幣のみならず、株式、債券など、数々のものが「信用」の名の下に取引されている。
 
おいしいと評判の店の行列を並ぶのも一興ではあるけれど、たかが「焼印」「刻印」のために時間を使って並ぶのはなんとも面白くない。せっかく食事をするなら、「焼印」のついていない店で食べ、自らが「価値を探す」ことで楽しみを得たいものである。

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