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Twitterの時代の終わり……

イーロン・マスク氏がTwitterを改革し始めたこととは関係なく、ただ単に自分が合わなくなったというだけなのだが、いよいよTwitterを本格的にやらなくなった。

何年か前、Twitterを更新しなかった日が何日あるのか調べてみたことがあるのだが、その時点では、Twitterを始めてから10日にも満たなかったと記憶している。つまり、かつてはほぼ毎日欠かさず、何かしらツイートしていたらしいのだ。それが、最近はツイートしない日の方が圧倒的に多く、1ヶ月ぐらい何も呟かないときもある。えらい変わり様である。

最近は、Twitterの仕様の移り変わりが激しいらしい。Twitterが「壊れ始めている」というような意見もある。

インフラが不安定になっていることもさることながら、たとえば、自分がフォローしてない人のツイートも結構出てくるようになったり、自分のツイートがどれぐらいの人に見られているのかといった数字が可視化されるようになったり、かなり使い勝手が変わっているらしい。 

僕が感じるTwitterの嫌なところは、「拡散性の高さ」である(以前も書いたことがあるが)。Twitterには「リツイート機能」というものがあり、知らない人にどんどんツイートを拡散してもらうことができるのだが、この機能があまり好きではない。

もちろん、拡散されてたくさんの人の目につくのはメリットがあることは理解しているが、前後の文脈を一切知らない人にツイートを読まれると、誤解される確率が高まる。

ちゃんとした文脈で物事を伝えてもなかなか伝わらないのに、前後の文脈を無視して切り取られたものが自分の知らないところで一人歩きしていくようでは、恐ろしくて使えたものではない。Twitterでしょっちゅう炎上して困っている人は、そういった性質に振り回されているように感じる。

最近、Twitterを見ていて不快なのは、「世間の人を感情のままに晒しあげるような風潮が強い」ところである。そして、それがリツイートで「拡散」されてくるのだ。

たとえば先日、専門学校の教員が自分の生徒についてツイートしたものを見た。ゲームクリエイターを養成する講座の学生たちの多くが、スイッチの有名タイトルを遊んだことがなく、スマホゲームしかやったことがない、というのをツイートで嘆いていた。

それを書くのは個人の自由だから好きにしたら良いのだが、個人的にはあまりそういった感情みたいなものをそのまま書かれると、酔ってしまうというか、あまり気分がよくない。

まず、そういったことをちゃんと生徒に伝えられているのか、というのが気になった。生徒側からしたら、そもそもスイッチのゲームを遊ぶ必然性がなく、スマホゲームで充分だと思っている可能性がある。もしそうであったとしたら、指導するのも教員の役割ではないだろうか。

もちろん、そこでちゃんと生徒とコミュニケーションをとっていないとは言えないのだが、どうも、コミュニケーションが不全だったので、感情のままに晒しあげるような言い方でツイートしているような印象を受ける。

生徒が未熟なのは当たり前だ(だからこそ、学校に通っている)。未熟な生徒にちゃんとした知識を教えてあげるのが教員の役割だと思うのだが、苛立ちや嘆きをTwitterに書き込んで、最近の若い人はそうだよね、という共感を得ている、という構図は、どうも気持ち悪く思えてならない。

コミュニケーションの場ではなく、コミュニケーションが成り立たなかったときの感情の捌け口としてTwitterが利用されているような気がするのだ。そういうツイートは共感されやすいので、拡散され、自分の目に届く機会も増える。その循環がなんとも嫌だな、と。

これは一例だが、Twitterにはそういったツイートがやたらとたくさんあるので、自分にとって不快な空間になりつつある。

「Twitterがダメそうだから、別のSNSを探そう」と考える人も多いようだけれど、そもそも僕が感じているのはSNSの限界のような気がしている。ある程度まとまった文章が書けて、拡散性の低いnoteが一番性に合っているかもしれない。

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