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世界と接続する手段を鍛える

遠い昔、就職活動をすることになったとき、大学では面接対策として「模擬面接」というのを実施していた。強制ではなく任意だったが、キャリアサポートセンターという部署が大学にあり、申し込めばやってもらえるようだった。

同級生は面接対策として参加していたみたいなのだけれど、自分はついに一度も申し込まなかった。「模擬の面接」って意味があるのかな、とその効果に懐疑的だったからだ。

会社によって事業内容は違うわけなので、当然、話す内容も変わってくる。模擬で面接をする場合の、面接をする側の企業はどういうふうな設定で行われているかがよくわからなかったので、あまり意味はないのでは、と思ったのだ。

自分が就職活動の面接対策でやったことは、シンプルに、滑舌かつぜつをよくすることだった。そんなに滑舌が悪いという認識もなかったのだが、どんな受け答えをするにしても、モゴモゴ喋ってるようだと、それだけであまりいい印象がないのでは、と思った。

面接で問われる内容は企業によって違うし、どう答えるかも企業によって変えるので、「面接そのもの」を練習するのではなく、面接の受け答えの中身はそのときに考えることにして、せめて聞き取りやすい声で話そう、という作戦だった。

具体的に何をしたのかというと、やったのは「本の音読」である。面接対策に面接とは全く関係のない本を毎日一時間ぐらい音読していた。なんだかアホみたいではあったが、実際にはこれは絶大な効果があり、音読を集中的にやっていた時期は日常生活やバイトなどでもかなりスラスラと言葉が出てくるので驚いた。それが要因かは不明なのだが、結果的にはすぐに内定がとれたので、よかったのではないか、と思っている。

誰でも日常生活で普通に会話をしているが、実際に日常会話で交わしている会話は、文字量にするとぜんぜんたいしたことがないはずだ。それと比較すると、就職活動の面接というのはそれなりにたくさんの文字量を話す必要があるので、それだけでも日常からは離れている。

会話は、「相手の表情を見る」「相手の発言内容を理解する」「こちらが話すことを考える」「考えたことを言葉に置き換える」「発声する」といった複雑な処理が必要だ。最後の「発声する」ところは、物理的なもので、意外とここに神経のリソースをとられている気がするので、その部分だけでも「鍛えておく」と、効果が見込めるのだろう。

昔から人と話すのが苦手なほうではないので、得をする場面は結構多かったように思うが、「しゃべる」というのは誰でも普遍的にできることなので、別にしゃべる能力が少しぐらい高かったとしても、そこまで誇れるものでもないのかな、と思っていた。

しかし、実際のところ、世間に出ると「よくしゃべれる」というのはそれだけで結構得である。たとえば理系のエンジニアの人たちは、そんなにしゃべる能力が必要ないように思われるかもしれないが、実際のところはエンジニア同士でもコミュニケーションは密にとるし、会議も多いし、客先と話すこともあるだろう。客先と話すのが苦手だからといって、それだけで回避できるものでもないはずだ。

最近、「話すこと」というのは、コミュニケーションの手段にすぎないが、それをベースに社会が成り立っている、ということを理解している。何か高尚なことを考えていたとしても、話したり、文字にしたりしなければ他人には伝わらない。

世界と接触することが「話すこと」なのだから、その手段の「発声」を鍛える、というのは意外と利にかなっているのだろう。騙されたと思って、本の音読を習慣にすると、見える世界が変わるかもしれない。


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