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映画「君たちはどう生きるか」:ネタバレあり感想

宮崎駿の最新作、「君たちはどう生きるか」を先日見てきた。鈴木敏夫Pの戦略により、事前の情報公開が一切ない作品だったので、しばらくはネタバレを控えた感想を書くにとどめる予定だったのだが、思った以上に難解な作品だったので、ネタバレ前提の考察を書いたブログやYouTube動画などが無数に出回っており、自分だけがネタバレに配慮した感想を書くことにあまり意味がなくなってしまった。

なので、この作品を見た人向けに、自分の理解の整理も込めて、ネタバレありの感想を書いてみようと思う。とはいえ、まだ一度見ただけに過ぎないので、細かい部分はよく理解できていないところもあるのだが、整理していきたい。

(以下、未視聴の方はネタバレ注意です。)











世間の評判どおり、難解な映画だと思われるのだが、骨組みとしてはかなりシンプルだ。要は「異世界に行って戻ってくる」話である。なので、物語の構造としては「千と千尋の神隠し」に近い。

「千と千尋の神隠し」では、冒頭20分ぐらいで異世界に迷い込み、あとは異世界での千尋の成長が描かれていくという筋書きなのだが、本作は異世界に迷い込むまでの現実パートに1時間ぐらいが費やされているため、スピードが遅い。

しかし、これは「異世界に行くのであれば、冒頭で行くべき」という映画のセオリーにあえて反したものだという理解が自然だろう。しかし、このおかげでスピード感を削ぐにとどまらず、「これってなんの映画だっけ?」という焦点がぼやけてしまう。これは、映画の評としてはマイナスポイントにつながった要因だと思う。

また、現実パートの時間が長いため、「異世界での経験を通じて主人公が成長していく」カタルシスがあまり得られないような構造になっている。ここがたぶん、「千と千尋」と比べるとわかりにくく、「本作の筋書きが悪い」という評価につながっているところなのではないかと思う。

また、この作品の評価を下げている別な要素としては、重要キャラクターである「アオサギ」のキャラクターデザインが、一般的な観点から見てキモすぎるというところだろう(笑)。

ポスターだとなんかちょっとイケメン風な感じなので、もしかしたらこいつが主人公なんじゃないかと思わせるような精悍な顔つきをしているのだが、禿げた小太りのおっさんが中に入っているので、そのギャップが結構大きかったのではないだろうか。

物語の役割としては、狂言回しというか、「もののけ姫」で言うところのジゴ坊的な存在なので、そういうものだと飲み込んでしまえば別に違和感は無い。だが、最初の印象とのギャップが大きかったのが、悪い意味で期待を裏切ってしまったところがあった。

物語全体の筋書きとしては、「面白さ」には欠ける。というより面白いと思えるように作られていないのではないだろうか。「面白い話を作る」というのであれば、例えば「天空の城ラピュタ」のような、わかりやすい筋書きで、わかりやすい悪役がいる、みたいな映画にするのがいいだろう。しかし今回の作品はおそらくそういうところを目指していないので、面白くないのも意図的なものだといえる。

非常に抽象的なアイテムがたくさん出てきて、物語が進んでいくので、謎解き要素が強く、考察をして楽しむタイプの人たちはこれで楽しめるだろう。現にYouTubeでもnoteでもブログでも、いろんな考察を出している人がいる。

しかし、物語の中だけに出てくる要素ではなく、もっとメタ的な視点からスタジオジブリの内情や、宮崎駿を取り巻く人間関係みたいなものを想像して、これはあれに当てはまるのではないか、みたいな楽しみ方をしている人が多いように思う。実際に僕もそのように見た。

多くの人が指摘しているように、「アオサギ」というのは鈴木敏夫Pのことだろう。プロデューサーというのは、クリエイターや周囲を巧みにたぶらかし、だましだまし前に進めていく必要があるが、それに主人公は乗せられていく。しかし、なんだかんだ言って、最後は「友達だ」と言うあたりは、宮崎駿からの鈴木敏夫Pに対してのメッセージなのではないかと思う。

これも誰かは考察していると思うのだが、まだ僕は目にしていないものとして、本作は高畑勲を強く意識した作品なのではないか、と思う。というのも、冒頭の空襲のシーンから始まり、母が焼死し、その後知らない家に預けられる展開は、「火垂るの墓」そのものである。

そういえば、「火垂るの墓」の主人公の清太と、「君たちはどう生きるか」の主人公の眞人のキャラクターはなんとなく似ているようにも思う。一見すると、真面目な少年のように見えるのだが、実際はエゴが強く、ちょっとひねったところがあって、暗いところもある。この時代の人間にしてはやたらと現代的なのである。

眞人も、昭和というよりは令和の少年といったほうがいい性格をしていて、これまでの宮崎アニメの主人公のようにわかりやすい性格ではない。「火垂るの墓」では、清太は預けられた親戚の家でそりが合わないのだが、叔母がかなり性格の悪い人間として描かれており、しょっちゅう衝突する。そのあたりが、「君たちはどう生きるか」に出てくる、優しそうな雰囲気の夏子と対比している。

しかし、そこに「宮崎駿の人物の描き方」の妙がある。宮崎駿は、実際にキャラクターがもっている感情とは「反対の感情」を表情として描くことがあるのだ。

登場人物が表に見せている顔と、内情は違うということを表現しているのである。夏子は表面上は優しそうに見えるけれど、一向に心を開こうとしない眞人に対して苛立ちの感情を抱いていたのではないかと思うのである。現に、「下の世界」で再会したときは、「あなたなんて大嫌い」と本音をぶちまける。

特に「火垂るの墓」と対比している構造に見えたのは、アオサギが「お前は母親の遺体を見たのか」と言うシーンである。それが母親を探しに眞人を連れ出す口実のひとつとなっているのだが、「火垂るの墓」では、清太は遺体となった母親と病院で対面する衝撃的なシーンがある。そこを克明に描く高畑勲と、そこをあえて書かず、物語のキーとしてしまう宮崎駿の違いなのかなと思った。

これらの対比もおそらくは意図的なものである。「パクさん(高畑勲)と違い、おれならこう描く」という宮崎駿の主張が見えるからだ。

その後、母から贈られた「君たちはどう生きるか」という本を読んで、眞人は生まれ変わったように性格が変わる。そこから先は、怖くても前に進むという、人間的な成長が見られる。つまり、「君たちはどう生きるか」を読む前後に、あきらかに時間的な断絶があるのである。

少年ジャンプ的な世界観だと、ある一定期間の修行を挟んでパワーアップするのだが、本作では、主人公の「成長した」描写が、この「読書をした」一点に凝縮されている。ここがちょっと掴みにくく、視聴者的にはわかりにくい構造になっているのではないかと思う。

しかし、映画そのもののタイトルが「君たちはどう生きるか」なのだから、この本を読む体験が物語の重要なファクターになっていることは明らかである。視聴者は、眞人と同じタイミングでこの本を読む、という想定で見たほうがいいのかもしれない。

「下の世界」は言うまでもなく、スタジオジブリそのものだろう。積み木を積んで世界の秩序を保っている大叔父というのは、スタジオジブリで創作をしている宮崎駿自身のことだ。

「積み木を積まなければ、この世界は3日程度しか持たない」というのは、アニメスタジオの経営のことだろう。常に新しい作品を作り続けなければ、スタジオそのものが維持できない。そこで、インコ大王が怒って適当に積み木を積むと、世界が崩壊してしまう。これはそのまま、「適当な作品を作ったらスタジオが潰れる」という意味だろう。

細かいところまで見ていくといろいろな解釈ができるので、これ以上の細かい部分は別の考察者に預けることとする。個人的には、もっと宮崎駿が元気なときに、全力の作画で本作をみてみたいな、と思った。

「風立ちぬ」ぐらいのタイミングだったら、まだ間に合ったのではないだろうか。


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