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人間の知性は「プログラム」と「データ」に分かれているのか?

専門家ではないので細かい点での誤りはあるかもしれないが、ざっくりとした概念で捉えてほしい。人間の知能とコンピューターの知能について考えてみる。

コンピューターの機能は大きく分けるとプログラムとデータに分けることができるのでは、と思う。プログラムとは、情報を処理する仕組みそのものだ。プログラマがキーボードを叩いて、こういう情報が来たらこう処理しなさい、というのを事前に設計していくわけだ。

それに対して、データというのは、つまり「情報」である。コンピューターに流して処理するためのものだ。このふたつが組み合わさって、コンピューターとして機能するのでは、と思う。

おそらく順番としては、まず最初に組み上げられたプログラムがある。データはプログラムを走らせるうえでの情報として機能するが、まず最初にプログラムがなければコンピューターは動かない。

人間をコンピューターとして考えた場合、このプログラムとデータの切り分けはどうなっているのだろうか。少なくとも、自分を誰かにプログラミングされた経験はない。しかし、情報を流し込んで処理するシステムはあるわけだから、なんらかの形でプログラム的なものは存在するはずだ。

強いていうなら遺伝子はプログラミングされた情報ではあるが、あくまでタンパク質の設計図であって、いわゆる「知性」というのはそこに含まれていないだろう。人間の知性のプログラミングはいつ、どのようにして行われるのだろうか。

「ものを考えること」「考え方」そのものがプログラミングだということはできるだろう。例えば、学校などで学べる社会のルールなどの、規範である。「こういう情報はこう処理していくんだ」という一般的なものだ。

具体的にトラブルが生じたときの問題解決の経験を重ねることで、次第にわかっていく、ということもある。経験によって自らの行動プログラミングしているといってもいい。

では、データはどうだろうか。これは知識や情報などと考えると、例えば本を読んで得られる知識そのものと言える。学校の授業でも先生が勉強を教えてくれるが、それは「蓄積するデータ」を増やす作業だと言える。

だが、日々の生活の中で得られる経験や知識は、「プログラム」と「データベース」のように独立した形で管理されている気がしない。それらは主に「経験」という形で理解・保管されているように思う。

物事を理解するとき、「具体的な例」があると理解が深まるように、抽象的なプログラムのアルゴリズムという形では人間の脳にはうまく入っていかないのかもしれない。

具体的な経験を抜きにして、人間社会のあり方をきちんと理解しているという状況がイメージできないのだ。つまり実際に知識を得たり、経験を重ねたりしながら、どう物事を処理していけばいいのかというプログラミングを並行して行っているような気がするのである。

人間は、具体的にものを学びながら行動を修正していっているのだろうか。 

ここでカギとなるのは、おそらく「抽象化」という作業である。具体的にあった物事を抽象的に捉えて、別の物事にも応用できるようにする。

その抽象概念はなかなか言葉には変換しづらいが、自分の中ではある種のガイドラインとして存在することになる。例えば嘘をついて後でその嘘がばれたときに大きな不利益を被るという経験があればこそ、嘘をつくのは結果的には得をしないということがわかり、嘘をつかなくなるといった具合である。

嘘がばれたときに相手を逆恨みしたりしていると「正しく」行動がプログラミングできない。そうなると誤った方向に処理するプログラムになってしまうので、正しく抽象化するという能力が求められる。しかし、そういった抽象化の作業などについては、特に誰かに教えてもらったりすることはないように思う。

学校の授業では、基本的に最新の情報ではなく「古い情報」が与えられる。最新の情報は、例えばインターネット等を検索することによってすぐに手に入るが、学校で教える内容はそういうものではない。古いが、この先10年20年経っても変わらない内容ばかりだ。

要は耐久性の高い情報なので、それをベースに物事を考えることができる。数学や物理、国語等は言わずもがなだが、ほかの科目についてもそうだ。

例えば平安時代に関する知識は、一見すると点の知識でしかないが、平安時代という知識がベースになければ、例えば平安時代の遺跡に行ったり、平安時代の古典に触れた際、新しい思考を重ねることはできないわけで、自分に蓄積された情報をベースに「ものを考えている」とも言える。

つまり、基本的には情報処理をするためのプログラムの方が上位に来るはずだが、人間の場合は、データがあることによって思考を育てたり、ものを感じることができるわけだ。

本にもいろいろな種類がある。純粋に情報だけが書かれている本もあれば、物事の考え方や自己啓発本のように、心の有り様を整えてくれるようなものまである。

しかし、抽象概念しか書かれていない本というのはあまりない。どちらかというと、データしか書かれていない本のほうが割合としては多い。仮にデータがほとんどの本を読んだとしても、そこから抽象化することによって、自分のプログラムに組み込んでいっているのだろうか。

そう考えると、コンピューターでは便宜上プログラムとデータというふうに分離しているのだが、本来は分離しておらず、一体化してるのかもしれない。上記の考察の通り、人間の知性と言うのは完全に一体化しているように思う。

なかなかややこしい話ではあるが、一体どうなのかなと思って少し考えてみた。何か意見があればぜひお願いいたします。

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