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「世界に打って出る」とは?

メディアを見ていると、日本人はもっと世界を見よ、世界に打って出ろ、みたいなことを言っている人を見かける。しかし、世界に出る、世界に打って出るというのは具体的にどういうことなのか? というのを常々思っている。

まず、海外に出るにあたっての最初の障壁は、英語だろう。日本人は英語がしゃべれないのがやたらとコンプレックスになっている。

しかし、僕は以前の仕事は海外と取引のある仕事をしていたので、仕事でときどき海外からゲストを招いて、アテンドをする場面があった。当然、会話はすべて英語である。そのとき、グループ会社の社員で「英語がまったく話せない」人がいたことがあり、最初の日は全くこちらの会話についてこれてなかったのだが、3日後にはそれなりに英語が話せるようになっていて、驚いたのを覚えている。

つまり、英語が「話せない」のではなく、「話せないと思っている」のだと思う。実際には、中学高校と授業をやっているわけだから、実は誰でも話せる。しかし、英語を話す機会がないので、話せないと思っているだけなのだ。

その一番の要素は何かというと、「日本語で話している内容があまりにもハイコンテクストすぎる」ということがあるのでは、と思う。僕は日本語のできる中国人の知り合いが何人かいるが、「日本人同士の会話は難しすぎてわからない」と言われたことがある。

日本人が中国人相手に日本語で話す分には、問題なく聞き取れる。しかし、日本人同士の会話はついていくのが難しいのだそうだ。これはつまり、日本人は日本人にしか伝わらないニュアンスで言葉を話している、ということになる。それを英語に正確に翻訳するのができないので、「英語(外国語)が話せない」になるのだ。

英語で話しなれてくると、自分の言いたいことをシンプルな言葉で言い換えることができるようになり、話せるようになるのだと思う。これが、「英語が話せない人が突然英語で話せるようになるからくり」だろう。

以前はよくバングラデシュに仕事で行っていたが、バングラデシュのエリートは英語がうまかったな、と思う。イギリスの植民地だったということもあるし、大学教育が英語で行われている、というのも大きいだろう。

というのも、教科書が英語のものしかないのだ。メディアの娯楽も、だいたいは英語である。国力というとあれだが、「日本語しか話せない」ということは、裏を返せば「ビジネスからエンターテイメントまで、すべて日本語で完結する」ということだ。これは結構すごいことだと思う。

「世界を見ろ」「世界に打って出ろ」というのは確かにそうなのだけれど、世界に出ると、日本の良さがわかる、という側面もある。もちろん悪いところもあるのだけれど、良さも際立つ。

僕が個人的に、アジアに行って帰国してくると感じるのは、コンビニの品ぞろえの豊富さである。もちろん海外でもコンビニはあるのだが、ここまでたくさんの商品はない。海外に暮らしている人の多くは、日本社会になじまない、というタイプの人が多いような感じもする。まあ、本人がいいなら別にいいのだけれど。

「世界に打って出る」というのは、言い換えれば、日本の外に出ることによって、世界標準の感覚を身に着けろ、ということなのかもしれないけれど、ここについてはいい面と悪い面があるな、と思う。いまの日本文化は、そもそも江戸時代、つまり鎖国によって形作られたものが大きいと思うからだ。

文化面、精神面では江戸時代に作られたものがかなり大きい。いまでは、その時代に作ったものが日本の文化として認識されているわけで、面白いものだ。外国から隔絶されることによって価値が生まれる、というのは、なんだか石油みたいだな、と思うのである。

日本の部品メーカーなども、必ずしも世界で勝負しようと思って商品を作っているメーカーばかりではないだろう。結果として、世界のトップシェアを得ているメーカーのほうが多いのではないだろうか。まあ、トヨタなどは海外進出が著しいが、完成車メーカーなどは商社的な立ち位置になるのかもしれない。

これを個人に置き換えて考えてみると、「外に出ているだけの人」には深みはでない。一人で家でじっとこもって、本を読んだり、創作したりすることで価値が出てくるのではないか、と思う。


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