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記憶は人格のアップデート

人格は、「記憶」が作るらしい。にわかには信じがたいが、以前読んだ本にそう書いてあった。真偽は定かではないが、人格は記憶が作る、という前提に立って、少しこれについて考えてみたい。
 
記憶が人格を作るということは、自分が実際に体験したことはもとより、「知識」などを含めた自分の記憶が、自分という人格を作っている、ということになる。
 
人格とはなんだろうか。人格は、ただ黙ってそこに座っているだけでは、よくわからない。なんらかのインプットがあって、それに対するアウトプットを要求されたとき、人格が見える。特定の手順にしたがって情報を処理する、すなわち、物事をどう判断し、どう処理するか、それがその人の「人格」次第、ということになるのだろう。

もちろん、過去に起きた事件とそっくり同じ事件が将来起きるはずないので、新しい事象については、基本的にはゼロベースで考えていく必要がある。しかし、ゼロベースで物事を判断しているつもりでも、実際には誰しも過去の自分の経験や知識を踏まえて、それを応用して問題解決にあたっている。

頭の良し悪しに限らず、年齢が低ければ低いほど問題解決能力は低い。過去に起きたことを、記憶として溜め込み、ときどきオーバービューすることによって普遍化し、将来的に起こるであろう似たような問題に応用できるように記憶を変形しているのだろう。その変形の結果、「人格」に影響を与えているのかもしれない。


 
いま、人工知能の世界では「深層学習(ディープラーニング)」が話題だが、上記のようなことが本当に行われているのだとすると、人間は生まれながらにしてディープラーニングをしている、ということになる。

というより、あべこべで、人間の「記憶」の仕組みをより正確に機械的に模したものがディープラーニングという手法なのかもしれない。
 
以前、ネットで、本を読むことに意味がない、ということを主張している人がいた。曰く、本を読んだりしてインプットしても、どんどん忘れていってしまうので、インプットをする人は「忘れるためにインプットしている」ということになる、と言うのだ。

その人曰く、それだからインプットをなるべくせず、自分の頭で考えるほうがよっぽど身になる、と。だが、僕は残念ながらその人が「頭がいい」と感じる部分がなかったので、ずっと、「それは違うのではないか」と思っていた。しかし、明確にどの点がおかしいのかはなかなか言語化できなかった。自分の考え方とは違うけれど、その人の主張は、それはそれで一理あるような気がしたからだ。
 
人間の「記憶」の仕組みについて、まだ解明されていないことは多い。「覚えている」ということがどういうことなのかもわからなければ、「忘れる」ということがどういうことかもわからない。

例えば、僕は地名や人名などの固有名詞をよく忘れてしまうが、調べたら思い出すことができる。一度でも読んだり聞いたことがあるものは、忘れてしまったとしても、「検索」することができるし、正解を見れば「思い出す」こともできる。「思い出す」ことができるならば、それは本当に「忘れて」しまったと言えるのだろうか? 

僕は毎日、結構丁寧に新聞を読んでいるのだけれど、読んだ内容は片っ端から忘れていってしまう。でも、あとから読んだ記事を見返すと、「そういえばそんな記事もあったな」と思い出すことができるし、毎日新聞を読むことで、記事と記事の関連性にも気付くことができる。

写真やデータのように正確な形で記憶できているわけではないけれど、完全に記憶が失われているわけでもない。「感覚」というか、違う形で頭のなかに存在している。それが「人格」だと言われると、確かにそうなのかもしれない、と思う。


 
たとえば本を読んで、内容をそっくりそのまま忘れてしまっても、全く問題がない。「記憶」が「人格」をつくるのだから、たとえ忘れてしまったとしても、「経験」や「知識」などの「記憶」は、「人格」に影響を与え、「人格」という形で残るのだろう。

インプットが大切な理由としては、「覚える」のが最終目的ではなく、自分の「人格」、すなわち「情報を処理してアウトプットするシステム」をアップデートすることなのかもしれない。

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