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「時間」を意識するのは難しい?

気づけばもう年の瀬である。うかうかしていると、今年ももうすぐ終わりを迎えてしまう。仕事は一応今日で締める予定だが、IT系の会社なので、主幹サービスのシステムはずっと稼働しており、何か問題が起きれば対応しなければならない。なので、年末年始といえども「待機」という感じになる。

そのせいかはわからないが、年末に感慨深くなるタイミングを逸したような気がしている。まあ、別にそんなものは必要ないといえば必要ないのだが。

歳をとると時間の進み方が早くなる、とよく言われる。これは本当にその通りだ。しかし、別に「歳」に限ったことではなく、何事も積み重ねていくと変化が薄くなり、経過が速く感じられるものだ。

高校生ぐらいの頃から日記をつけ続けている。毎日欠かさず、というわけではないが、だいたい毎日つけている。それを読み返してみると、なかなか面白い。日記をつける習慣のない人はなかなか気付けないかもしれないが、人間の記憶ほど曖昧なものはない。出来事そのものをかなり忘れてしまっていたり、記憶違いしているものもずいぶんある。

また、当然のことながら、昔になればなるほど、記憶は薄くなっていく。5年ぐらい前であれば案外覚えているものだが、10年前だとかなり曖昧である。特に人の名前の忘れ方がやばい。結構親しくしていた人の名前も忘れてしまい、「これ、誰だっけ?」となることもときどきある。

ただ、出来事そのものを忘れてしまうよりも深刻なのは、「起こった順番」がバラバラに記憶していることだ。普通の人でも、「あの出来事って、まだ一年前か」みたいに振り返ることがあると思うが、何が「いつ」起きたか、はかなり曖昧である。

人間の脳は、「時間」を捉えるのが苦手なのだと思う。もしも、独房か何かでメモがとれない環境下におかれて、どれぐらいの時間が経ったのかわからない状況になったら、記憶が混濁して、発狂してしまうのではないかと思う。

そういう意味では、カレンダーというのはすごい発明だ。カレンダーによって、感覚的にはあいまいな「時間」を視覚的に捉えることができる。

当たり前のことだが、カレンダーがあるから社会生活が送れているようなところはある。でも、時間は毎日進んでいくため、意識しない膨大な「過去」があるわけだ。あまりこういったことを普段から省みることはない。

日記をつけていて一番面白いのは、人間はいかに近視眼的なことに囚われているか、を発見できることだ。人にもよると思うが、自分の場合、なんとなく一週間から一ヶ月単位ぐらいでしか物事を考えていないような感覚がある。

とりあえず一週間単位で仕事をするが、目標などはだいたい一ヶ月ぐらいがせいぜいだ。過去も、とりあえず一週間ぐらいは地続きなので意識しているものの、半年前、一年前に完了した仕事がどうなったかなんてほぼ気にしていない。これは職種によるだろうし、関わっているプロジェクトによっても異なるが、本当に自分が「気にしている」のは前後一週間程度になる。

日記を読み返すと、そうした過去の自分を、時間的に離れた場所から俯瞰することができる。5年前の日記を読むと、当然のことながら、5年前の前後一週間ぐらいのことを気にしながら生きている自分がいるわけだが、当然のことながら、いまの自分にはそんな5年前の前後一週間のことなど全く関係がない。なので、かなり客観視できるような気がするのである。

ものを書き残しておいて、時間が経ってからそれを見返すというのはとても面白い。ある程度の客観性を獲得するには、時間をおくのが一番だ。

「自分」というものを発見するには、究極的にはそうするしかないのかもしれない。もしも、過去の自分に何か違和感を発見したとしたら、それが「いまの自分」ということになる。

1年前、2年前に書いたnoteなども、読み返してみると、いろいろと発見があるのでは、と思っている。

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