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急に外国語を話せと言われても

子どもの頃、アメリカに住んでいたことがあり、大学も外国語大学を出ているので、「外国語ができる」と勘違いされることが多い。初対面で、いきなり「なんか外国語で話してみてよ」と無茶振りされることもある。

一応、仕事などでちゃんと使っていたのは英語ぐらいなので、英語はまあそこそこ話せるが、中国語は日常会話ですら怪しいし、フランス語は大学で専攻していたが話すレベルではない(1・2年は文法の勉強ばかりで、会話の勉強がなかった)。

まあ、外国語といえど、人間が話す言語であることに変わりはないので、どっぷりその環境に浸かると意外と話せたりするものである。朝から晩まで中国語を聞いていると、なんとなく話が聞き取れるようになってくる。


 
「外国語を話す」際は、「スイッチ」を入れないと話せない。まず、前提条件として、その言語を理解する人相手じゃないと話しかけられない。つまり、外国語を理解しない日本人に外国語で話しかけるのは実は相当ハードルが高い。

言語というのは相手に理解できるように工夫して話すものなので、言語を理解しない人に話しかけるのは、心理的なハードルが高いのだ。お地蔵さんに本気で道を尋ねようとするようなものである。

同様に、僕は関西圏の生まれなので、関西弁が一応話せるが、相手が関西人じゃないと話せない。相手が関西弁を話している場合のみ、つられてこっちも関西弁になってしまうのである。

つまり、言語というのは「話そう」と身構えてから話すのではなく、自然で出てしまうもの、と言えるかもしれない。
 
そもそも、冒頭の「なんか外国語話してみてよ」の難しさは、しゃべることそのものよりも、「その振り方で場を盛り上げるのが極めて難しい」ということかもしれない。普通に外国語を話したところで、「理解されない」のだから、盛り上がりようがないのだ。外国語を話す様子で盛り上げられるのは、タモリぐらいなものである。


 
いくつか対応を考えてみたものの、これが正解だ、と言えそうなものはない。せいぜいこんなところだろうか。

①思い切りボケる。I am a penなどと真顔で言ってみる。ただし、滑った時のリスクは計り知れない。
②普通に喋ってみる。たとえば、「突然英語で話せと言われても……」みたいなことを英語で話してみる。ただし、滑った時のリスクは計り知れない。
③何か、無難な英語の文章を暗記しておく。シェイクスピアの一文とか、日本国憲法の前文の英訳を話してもいいかもしれない。ただし、滑った時のリスクは計り知れない。

ここまで書いて思い出したのだけれど、就職面接のとき、「なんかフランス語でしゃべってみろ」と言われ、とっさにそのとき勉強していたアルベール・カミュの「異邦人」の冒頭を暗唱したことがある。なんか神妙な顔をして聞かれたのだが、なかなかシュールな体験だった……。

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