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相変わらず将棋を指す

相変わらず、毎日将棋を指している。奥さんもやっており、週に一度ぐらいのペースで奥さんとも対局している。やりだしてそろそろ二ヶ月ちょっとが経過しようとしているが、飽きる兆しはない。

どんなゲームであれ、毎日二ヶ月もやっていたら、それなりに飽きそうなものだが、全くそういう気配はない。やればやるほど、自分の弱さが浮き彫りになるし、強い人がなぜ強いのかも理解できるようになるので、より深みが見えてきて面白い。
 
少し前は、ニンテンドースイッチみたいな、最近のゲームにも関心があった。読書や作曲など、他にも趣味があるので、ここに「ゲーム」が加わると時間がなくなってしまうと思い、手を出さなかったのだが、結局ここに将棋が入り込んでしまった。

まあ、こうしてブログは書き続けているし、読書や作曲も進めてはいるので、いいのかもしれないが。自由時間の密度が高くなったような気がしている。


 
最近のゲームにおけるオープンワールドのコンセプトと、将棋は、ほぼ対極に位置している。広大なマップのオープンワールドと比較すると、将棋はたったの81マスしかない。しかも、コマも8種類しかなく、動き方もすべて決まっている。

もちろん僕もまだ初心者なので、強い相手と当たるとボコボコにされるのだが、逆にはじめたてみたいな人に当たると、ボコボコにできることも増えてきた。将棋において、弱い人は強い人に全然勝てないのである。ここまで実力差が浮き彫りになるのも過酷だよな、と思う。

しかし、ボコボコにされたら、逆に相手の手を研究して、こちらのものにしてしまえばいいわけで、「負けるのも勉強のうち」である。そうやって、少しずつ強くなっていくのだろう。

それでいて、将棋には必勝法はない。「強い人と当たると確実に負ける」のだが、「確実に勝つ方法はない」のである。すごいゲームバランスだと思う。
 
最近のオープンワールドゲームと比較してすごいな、と思うのは、将棋には実態がない、ということだ。

もちろん、将棋盤や将棋のソフトを使って将棋をするわけだが、そんなものはなくても将棋は指せる。ダンボールや紙などで、コマや盤は自作することが可能だ。極端な話、頭の中だけでも将棋は指せる(有段者ぐらいになるとこれができるようになるらしい。目隠し将棋などと言ったりする)。

数学などと同じで、将棋は「概念」なのだ。実際に将棋というソフトウェアがあるわけではない。これがすごいところだな、と思う。
 
最新式のゲームの世界は、広大でグラフィックも綺麗だが、膨大なコンピュータ・プログラムの世界を歩き回るだけだ。将棋の場合、プログラムすらなく、「将棋という概念」の中で遊ぶことになる。実態がない、というのが一番不思議で、ある意味究極なのでは、と思う。


 
将棋は実態を持たないが、可能性はほぼ無限大に近く(将棋の可能な盤面は10の220乗とも言われ、宇宙の原子の数よりも多いとされる)、天才が一生かかっても理解しきれない。

あまりにも桁外れなので、コンピュータでも解明できない。なんだか、こうやって書くとおばけみたいな存在だが、それでも毎日やっていると確実に強くなっているのがわかるし、「少しだけ」その深淵さの片鱗を味わうことができるのである。
 
一年で初段を目指す、というのが当初の目標なのだが、本当に達成できるのか、というのがありつつ、地道に努力が重ねて近づいていきたいな、と思う。将棋は、少しでも興味のある人には本当にお勧めである。

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