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わからないコンテンツについて

先日、村上春樹を「卒業」された方と話をした。かくいう僕も、村上春樹を「卒業」した人間だ。新作が出ればまた買うかもしれないが、もう多分、昔のようにハマって読む事は無いのかな、と思う。それはそれでちょっと寂しくはあるが。
 
村上春樹の小説はよく「おしゃれだ」と批判される。「おしゃれだ」と批判されるというのは、字面だけを見るとなんだかよくわからないが、要するに「スカしてる」っていうことなのだろう。

村上春樹の小説は、本筋とは無関係のところで、主人公の料理に関するよくわからないこだわりが提示されたり、聞いている音楽に関する謎のうんちくが、突然語られたりする。
 
物語の空気感というか、雰囲気を盛り上げるためには必要かもしれないけれども、物語の筋としては明らかに不要なので、読み飛ばしても全然構わない。

でもなんかそれを読むことによってなんとなく自分もおしゃれになっている気分になれる、よくわからないけれど、なんだか高尚な趣味を得たような気分になれる……。それが村上春樹の小説なのだ。

人は「よくわからないもの」が好きなんだと思う。よくわからない人、よくわからない絵、よくわからない音楽……。わからない、ということは、ひとつのエンターテイメントとして成立している。
 
では、「わからないもの」に真正面から取り組む勉強、すなわち学問が苦手な人がなぜこんなに多いのかというと、学問というのは読み飛ばすことができないからだ、と思う。

学問というのは順を追って理解していくことが重要で、構築性が非常に高いので、ひとつひとつステップを消化していかないと次のステップに進むことができない。中学生の数学を読み飛ばして高校の数学を理解することはできない。もちろん英語や、他の教科でもそうだ。
 
しかしエンターテイメントのコンテンツとして提供されている「わからないもの」というのは、そういう厳密な構築性は必要とされていない。

村上春樹の小説はその代表格だと思う。よくわからない事は書いてあるし、知らないうんちくを語られたりするのだが、読み飛ばしたところで物語の筋を理解する上で何ら問題は起きない。多分それが大学生の頃の僕を虜にした大きな理由なのだと思う。

全然頭を使っていないのだが、なんとなく頭を使ってるような気分になれて、結果的にそこそこ分厚い本を読みこなすことができた、という「謎の達成感」を与えてくれる。

登場人物がたくさん出てきて、複雑でわかりにくいトリックを解いていく本格ミステリなんかは、結構頭を使うので最近ではあまりウケが良くないのだろう。そういえば、あまり構築性の高い作品は最近読んでないような気がする。つまり、ちょっとでも読み飛ばすと筋が全然わからなくなるような作品だ。
 
自分がまだ理解できない、難しい作品に挑戦するのは大事なことなのだが、読み飛ばしても成立するような構築性の薄いものに惑わされないように。なんとなく読んだ気になって、それで自分の知的レベルが上がったと思うのは危険な落とし穴かもしれない。

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