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要約と敷衍で、話の核を見極める

例えばパワーポイントなどの資料を作るとき、最近やっている「遊び」がある。文字量を、とことんまで削るのである。本当に、一文字たりともこれ以上は削れない、というところまで削る。やってみると、ちょっとしたパズルみたいな楽しさがある。

結果、文章が漢字だらけになるし、体言止めだらけになるのだが、余分な重複が避けられるし、的確に短い言葉で表現されるのでわかりやすく、資料としての見栄えもよくなる。それをプレゼンする場合には、口頭で捕捉していけばいいので、ほとんど問題は起きない。

資料は文字量が少なくてスッキリしているほうが読みやすくなるようで、むしろ好評である。実用を兼ねてはいるが、一種の趣味、ゲームみたいなものとして楽しんでいる。

削れる量は、だいたい50%ぐらいだが、気合を入れると70%ぐらい削れることもある。いかに無駄な文字をこれまで書いていたか、ということである。


 
半年ほど前から、ブログの書き方を少し変えた。以前は、ぶっつけ本番でいきなり書き始め、1000字を超えたらクロージングを考える、という勢い重視の書き方だったのだが、最近は下書きをするようにしている。下書きはだいたい箇条書きで、長くても500字ぐらいに収めるようにしている。

その500字の箇条書きメモが下書きとなり、ブログ本文が生み出される。だいたい僕の記事は1500字ぐらいなので、3倍ぐらいに「水増し」していることになる。
 
下書き無しのほうが短時間で書けるので都合がいいのだが、下書きをしたほうが書くのが楽だ、と最近は思っている。というのも、下書きがあると、かなり自由にものが書けるのである。

下書き無しで書き始めると、話が脱線してしまうので、元の軌道に戻すことを考えたり、そもそも何を言いたいんだっけ? と、文章が露頭に迷ってしまうことがある。最初に、一応の下書きがあって、「話の核」が決まっていると、それを膨らませればいいだけなので、安心して風呂敷を広げることができる。

膨らませる過程で多少遊んでも、「核」はぶれないので、結果、文章が自由になるのだ。はじめから着地する地点が見えていないと、そもそもこれは文章になるのか? などと悩みながら書いていくので、まとまりのない、冗長な文章になってしまう。

1000字にも満たないような内容であれば記事にするまでもない文章なので、書くだけ無駄、ということになる。下書きをはじめてから、記事を途中まで書いたけど完成しなかった、みたいなことがほとんどなくなったので、むしろ効率はよくなった。

「昔は下書きをしていたけれど、いまは慣れてきたので省略できるようになった」という人のほうが一般的かもしれないが、自分の場合は上記の通り、逆をいっている。


 
要約の対義語は「敷衍ふえん」という。いい文章というのは、いくらでも要約ができるし、いくらでも敷衍ができる。本質が捉えられていると、要約しても、敷衍しても、意味が同じになるものだ。
 
「一言では言えないもの」に対して、僕はちょっとした憧れを持っていたけれど、「一言で表現できるほうがいいな」と最近は考えている。100文字の文章でも、10000字の文章でも、同じことを言っている。それぐらい芯の通った文章がいい。

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