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言葉は「誰が言うか」によって重みが変わるのか?

正論であっても、その人がまったく実践できていない正論を言ったとき、「お前が言うな」という反応をされるのは一般的なものである。自分のことを棚に上げてよくそんなことが言えるな、とかもよく言われる。

僕はそういう、何かの発言をするためにその人に「ふさわしい」とか、「言う資格がある」とか、そういう窮屈な考え方が嫌いだった。言っている内容が正しく、正論であれば誰がどのような発言をしてもいいと思っていた。別に、自分のことを棚にあげて話したっていいじゃないか、ということである。その人が実践できているかどうかはともかく、正論を聞き入れることが重要なのではないか、と思っていたのだ。

しかし最近は考え方が少し変わってきた。やはり、言葉は「誰が言うか」によって重みがまったく変わってくるのだ。少しそれについて整理してみたい。

誰が言っても同じ効力をもつ言葉は、その人個人の意見というより、客観的な、「理屈」のようなものだといっても良いだろう。これは誰が発言するかという個人にあまり依存しない。例えば学術論文等はどのような人が書いたって構わない。そこで構築されている理論を正しく、データが間違っていなければ、その論文は価値あるものとして認められる。

一方で、言葉というのはとても軽いものだ。誰でも、言い回しによってどうとでも言えてしまう。口約束といった言葉があるが、言葉によって交わされた約束は、言葉だけではそれが履行されると言う保証はどこにもない。

ここで「言葉の重み」という概念が出てくる。どういう立場の人間が、どういうタイミングで言うかによって、言葉の重みというのはまったく変わってくるのだ。

わかりやすい例がオオカミ少年である。嘘ばかり言っている人は、たまに本当のことをいっても信用されない。それは普段から嘘ばかり言うことにより、その人の「言葉の重み」失われていることが原因だ。一方で、これまでに嘘を言ったことのない人が放つ言葉は、嘘をつきまくる人よりは重みがある。

その人がこれまで嘘をつかなかったという実績があるため、言葉の重みが増している、と言い換えた方が正しいかもしれない。もちろんこれもそれまで積み重ねた実績がそうさせているのであって、時々嘘をついたりすると、たちまち重みを失ってしまう。言葉のもつ効力は個人の「信用」に依存するので、じつに儚いのだ。だからこそ、相応の立場にいる人は、不用意な発言をしないのである。 

立場によっても言葉の重みは変わってくるだろう。社会的地位の高い人や、専門性の高い人が語る内容は、そうでない人と比較すると格段に「意味」を持つ。

以前、睡眠の専門家が睡眠について語っている動画を紹介したことがあるが、そこの動画コメントでひとつビックリしたものがある。「この専門家の人はわからないことはわからないと言うから信頼できる」というコメントがあったのだ。普段、いい加減なことばかり言うYouTubeばかり見ているとそういう感覚になるのは当たり前かもしれないが、専門家と言うのはその道のプロであり、実績を積み重ねてきているため、ちょっとでも変なことを言えばそれまで築いてきた信用を失うことを意味するから、決して知ったかぶりをするような事はない。それはある意味では常識のようなものだと思っていたのだが、それだけで価値がある、ということを知った。

「学術論文は誰でも書いて発表することができる」と書いたが、素人が書いたものと、専門家が査読つきで書いたものでは重みが違うのは当然だろう。同じ言葉でも、「信用」という重みがついてくるのである。



言葉というのは、誰でも発することができるが、それをどう受け取られるかは、発した人に依存する、というのが自分の中では発見だった。

言い回しでどうとでも言えるからこそ、その重みを深く理解している人が、それだけ大きな影響力をもつのだろう。「話す力」「書く力」の本質が、このあたりに潜んでいるような気もしてくる。

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