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文章力がなくて困っている

仕事をしていると、自分の文章力のなさに呆れることがある。

というか、いままさにその「呆れ」の真っ只中にいる。あるデータを分析していて、分析そのものや考察は問題なく進行できるのだが、その結果をわかりやすいスライドにまとめる作業で、非常に苦戦している。

なんというか、見るのが経営陣なので、あんまりゴチャゴチャしてもいけないし、わかりにくい言葉、特に専門用語を使ってもいけない。かといって数字が入っていないのもダメだし、因果関係を立証できないような記述もダメ。

図や数字は入れるにしても、基本は「文章力」がものを言うところだと思うのだが、これがとにかく難しい。まあ、気長に考えるとしようか。
 
実は、文章力にはそれなりに自信があるので、こと「文章」で行き詰まると、なかなかショックが大きい。なんせ、毎日こういう文章を書いているので、それなりに書いているはずだ。しかし、単に「文章力」といっても、仕事で使うそれと、こうやって適当に自分の考えていることをしたためるのとでは、猫と恐竜ぐらい隔たりがあるのだ。


 
おしゃべり好きな人がコミュニケーション上手でないのと少し似ているかもしれない。だらだらとおしゃべりをすることができる人はいるが、よくしゃべる人ほど、一人で勝手にしゃべっているだけなので、あまりコミュニケーション上手とはいえない。

ましてや、議論や交渉などのハードなコミュニケーションならなおさらだ。そういった交渉には、むしろ寡黙カモクな人のほうが向いているような気さえする。それらは、総合的に「違う能力」なのだ。
 
とはいえ、こういうことも考える。すごくわかりやすい資料や、「人を動かす」力をもったものを作れる人は、ひとりでにそれができるようになったわけではなく、人知れず努力を重ねたからできるようになったのではないだろうか。

ちょうど、自分が人知れず文章をたくさん書いているのと同じように。自分の知らないところで、知らない努力を重ねているのだろうか。


 
人の痛みや、人の努力というのは、直接はわからない。何か大変な思いをして、努力したりしているときには、「こんな努力をしているのは自分だけだ」といったことを思ったりもするが、もちろん大半は思い過ごしだろう。

みんな、それなりに大変さや、隠れた努力をしているはずだが、他人の努力や痛みを知ることはできないので、単に自分がそれを知らない、というだけのことだろう。
 
とはいえ、こういうことの積み重ねがやっぱり「勉強」だと思う。とにかく、目の前の課題に精一杯取り組んでいくことにする。

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