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ルーティンワークがしたくてゲームをする

ゲームを全くしなくなってしばらく経つのだけれど、とうとう、全くゲームをしたいと思わなくなった。

小学生の頃は人並みに楽しんでゲームをやっていたので、「大人はゲームをやらないらしい」というのを聞いて、なんでゲームをやらないのだろうと不思議だったのだけれど、大人になったら確かにやらなくなった。

最初はファミコン、次にスーファミ、その後はプレイステーション、ゲームボーイアドバンスなどでよく遊んでいた。好きなジャンルは、MOTHER2やFINAL FANTASYなどのRPGや、ファイアーエムブレムみたいなシミュレーションゲームだったと思う。

割とオーソドックスなタイトルしかやった事はなかったけれど、それなりに時間を割いてよく遊んでいた。
 
なぜテレビゲームをしなくなったのかというと、「そんな暇はないから」の一言に尽きる。もちろん、最近話題の(話題でもないか?)Nintendo Switchには関心はあるし、ちょっと触ってみたいなと思わなくもないのだけれど、それに時間を使うぐらいだったらもっと別のことに使いたい、と思ってやめてしまう。

だから、そんな状態の僕がゲームについて言及するというのは、ちょっとお門違いなところがあるかもしれないけれど、少し書いてみることにする。


 
こう言うと語弊があるかもしれないが、ゲームをやる人というのは、基本的にはルーティンワークが好きなんじゃないかと思う。

振り返ってみると、日本の伝統あるRPGというのは、ひたすらルーティンワークを強いられるゲームだといえる。敵が強かったら雑魚キャラをいっぱい倒してレベルを上げて、洞窟の隅から隅まで歩きまわって宝箱を開けてまわる。

そういうことを地道にやっていけば、確実に強くなり、今まで倒せなかった敵も倒せるようになる。そういう、「前進している感じ」が好きで、ゲームをやっていたように思う。
 
もちろん今のゲームはもっと複雑で、パズル的な謎解きの要素や、アクション的な要素、戦略的な要素も含まれているから、そんなルーティンワークのゲームと一緒にするな、と思われるかもしれないけれど、ゲームクリエイターによってある程度の道筋が整備され、それに沿った上で成果を出していくのを楽しむという点では、いまでも共通なのではないかと思う。

最近では、「オープンワールド」といって、だだっ広い広大なゲーム空間を、特定の目的に縛られずに楽しめるゲームも流行っているというけれど、それがゲームである以上、誰かによってデザインされ、何らかの成果報酬が用意されているはずだ。

それがゲーム内でのお金なのかアイテムなのかはわからないけれど、何らかの作業を行うことによって報酬を得る仕組みがあるからやる気になるのだろう。

そういったことに打ち込んでも良いのだけれど、今はほかに優先すべきことがたくさんあるので、僕はゲームをしないのである。
 
比較的ゲームをしていた中学生や高校生ぐらいの頃は、当然ながらまだ仕事をしていなかったので、自分に課せられた課題は、まずは勉強することだった。

勉強というのは、ただ時間をかけて取り組んだからといって、それがすぐに点数に反映されるわけではない。もちろん勉強時間と成績はある程度は比例するが、かけた時間がより確実に報酬となって返ってくるゲームの世界の方が居心地が良かったので、そっちの世界に傾倒していた、という面はあったかもしれない。

こうして書くとゲームの悪いところばかりを挙げているようだが、ここまで産業として発展している以上、もちろんそんなに悪いことばかりでもないはずだ。

でも、「他人が設計した枠の中で遊ぶ」という点では変わらないはずで、大人になると、自分でルール自体を設定できる楽しさがありそっちを優先するようになった、といったところだろうか。


 
僕は特にソーシャルゲームの類は一切やらないので、あれについては他人がやっているところを見たことしかないのだけれど、端から見ていると、仕事か何かをしてるように見えてしまう。ルーティンワークのようにしか見えないのだ。
 
他人が設計した快楽報酬システムにそのまま乗っかるのはなんだか癪だ。そう思うぐらいには、ひねくれている自覚はある。

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