見出し画像

とりあえず目を通す

たまに読書関連の話題で、「速読」が話題になることがある。

僕は自分の読書スピードが長年の読書記録でよくわかっていて、年間で120冊ぐらいだということを知っている。たぶん、今までで140冊を超えて読んだことはないはずで、それ以上の冊数を読んでいる、という人がいるのを聞くと、相当な読者家なんだなあ、と思う。例えば、年に200冊読む人は、相当な時間を割いてそれを読んでいるか、それとも「速読」をしているか、ということになる。
 
ひと昔ほど前は「速読」というワードがわりとバリューを持っていて、「速読講座」などの広告などもよく見かけたような気がするのだけれど、最近は少しかつての勢いがなくなってきたのかな、と思う。

以前見たことのある速読のパフォーマンスでは、普通の人が読む10倍以上のスピードで小説を読み、その内容に関するクイズに答える、みたいなことをやっていた(確か、作中の登場人物の名前を答えるとかそういうやつだった)。

まあ、なぜ小説なのだろうと思わなくもなかったが、とにかくそういうパフォーマンスが行われ、「速読ってすごいでしょう」ということがアピールされていた。


 
作家である佐藤優が速読について語っていたことがある。佐藤優は、速読によって、月間で500冊ぐらいの本を処理するらしく、そのノウハウについて語られていた。

佐藤優の場合、自分の専門分野について書かれた書籍において、それが読むに値するかどうかを判断するために、1分ぐらいの時間でその本の中身をざっと確かめるのだそうだ。

もちろん、それで1冊を読んだということにはならないが、専門分野であればだいたいその本の言わんとすることは読まずともわかるので、本当の専門家であれば、その本について理解した、ということは言えると思う。
 
つまり、ここで言う「速読」とは、自分の知っている部分を読み飛ばすということであって、決して未知の、理解できていない概念に対して圧倒的なスピードで理解をする、ということではない。

そもそも読書というのは、自分の理解スピードに合わせてスピードを調節できるのだから、非常に難解な部分を読み込もうと思えば、平常の何倍も時間がかかってもおかしくはない。英語の長文読解にかかる時間と、同じ内容の和訳文を読む時間が全然違うのと同じことだ。
 
だから僕が年に120冊ぐらいしか本を読めないというのは、それが僕の「ちゃんと読む場合の読書量」の目安、ということになる。

当然ながら、僕は読みたいと思った本しか読まないので、自分がよく理解している分野の本を積極的に読もうとはあまり考えない。速読をして、大半を読み飛ばすような本はそもそも読もうと思わないのだ。

仕事だったらまだしも、趣味で読む本が「読み飛ばしたいもの」であるはずがないので、普通のスピードで読んでいるのである。


 
でも最近、速読というのとは少し違うのだけれど、「とりあえず文章に目を通しておくこと」って大事だなとよく思う。例えば、何らかのサービスを利用するときに提示される約款なども、読み飛ばさずにちゃんと読んでみると、あんがい発見があったりする。

僕は毎朝、30分ちょっとぐらいの時間をかけて日経新聞を読んでいるのだけれど、関心がない記事であっても大きく取り上げられていればとりあえず読む。メモなんか取る必要はなくて、とりあえず読んでおいて、あとは忘れればいいのだ。

とりあえず読んでおくと、一応脳の中にインプットはされるので、毎日それを続けると、細部を記憶しているわけでもないのになんとなく世の中で起きていることの全体像が掴めたりする。

これを、例えば速読的に、自分に関心のある記事だけをピックアップしたりしていると、結局それは自分の中になにも残らないから、全く意味がないのでは、と思う。読み飛ばすのではなくて、忘れてもいいから目を通すことが重要なのでは。
 
僕は「覚える」ということに対してあまり意味を感じない。でも、「読んで理解する」というのはとても大事だと思う。この違いは大きい。

必要でないものは忘れてしまうのだから、どんどん忘れればいい。表面的には忘れてしまっても、「目を通しておく」ことが、のちのち生きてくることがとても多いのだ。

サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。