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「食事」はいかにしてこれほど貧しくなったか?

ジャック・アタリの「食の歴史」という本を読んだ。

栄養学的な側面から食を語る本はわりとよく読むのだが、この本は少し変わっていた。「人類が何を食べてきたのか」といった歴史的な経緯に触れながら、「食」がもたらす文化的な側面を紹介しつつ、総括している本なのだ。

もちろん、栄養学的な側面からも、歴史の各段階の状況について触れている。しかし、「文化的な側面」というのは、(自分がただ単にこれまで興味がなかっただけだが)あまり考えたことがなかったので、面白く読めた。

長い人類史を通じて最も変化したのは、「文化」としての「食の立ち位置」だろう。狩猟採集の時代は、男たちが狩りに行き、女たちがそれを調理し、みんなで火を囲んで食べる、そういう習慣が当たり前だったはずだ。古代から文明が発達し、中世の時代になっても、貴族たちは料理人を雇い、自らの邸宅で豪勢な食事を作り、人々と会食を楽しんでいた。

それがレストランの登場によって外注化され、それどころか「手軽に誰でも栄養豊富な食事ができるように」工業製品が食事の中心となり、「各々が自分の食べる分だけを調理して、一人で食べる」ことが標準となった現在に至る。

今では、卓を囲む食事の機会は世界的にも減少傾向にあり、仕事中に1時間たっぷり使って昼食をとる人は「生産性が低い」とすらみなされる世の中になった。

人間は食うために働いてお金を稼いでいるのに、食う時間そのものが削られているのだ。これが本末転倒と言わずになんと言うだろうか。

先ほど、「古代から中世へ」とサラッと書いたが、実際のところ、人類の歴史は有史以前のほうがはるかに長い。人類史はせいぜい数千年程度しかないが、人類そのものは何万年も狩猟採集の時代を過ごしてきた。

「火を囲み、会話をしながら食事をする」というのは、生きるために必要な「食事」と「会話」の場として、本能に刻み込まれている行為のはずだ。

そういった文化的な側面の変化として象徴される現象として僕が一番嫌なのは、「飛行機の機内食」である。もちろん、これは航空会社のサービスの一環であり、スペースの限られる機内では仕方のない部分は理解しつつも、客室乗務員キャビンアテンダントがワゴンを持ってきて、それを待っている時間というのがたまらなく嫌なのである。

なんというか、狭い機内で、大勢の乗客が並んで座り、食事をやってくるのをただ待ち、それを黙って食べるという行為が、家畜のような気分を連想させるからかもしれない。もちろん、乗っているのがエコノミークラスだからかもしれないが、同じような感想をもつ人はいるのではないだろうか。

しかしこれは、機内という閉鎖された環境がそれを強く連想させているだけで、けっこう「現代の食事」として象徴的なものであるような気がするのである。

実際のところ、「機内食は嫌だ」と言いながらも、機内食のような食事ばかり食べているわけで。

機内で食事をするぐらいなら、フライトの前後に空港のレストランで食事をするほうがマシである。一緒に旅をする人と、レストランで向かい合って、楽しく会話をしながら温かい料理を食べる。そのほうがはるかに「人類の食事」という感じがするだろう。



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