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人の説得力は「体験」に縛られるのか?

たまにnoteの記事を読んでいる人が運営しているYouTubeチャンネルで、「体験に紐づけて人に何かを話すこと」というテーマで話をしていた。

なんでも、その人は定期的に学校などで講演会をやっているらしいのだが、「自分の体験」に基づいていないことを話すのに限界を感じている、ということだった。たとえば、地球温暖化について、いま地球でこういうことが起きています、と旱魃や異常気象などの画像を引っ張ってきて人前で見せても、「自分の体験」と紐づいていない、いわば二次的な情報なので、聴衆の胸に響かない、というのだ。聴衆が耳を傾けるのは遠い外国の話ではなく、「個人の体験」に裏打ちされたものなのでは、ということを話していた。

なので、なるべく人にいろんな話ができるように、「体験」のストックをしなければならない、と結論づけていた。
 
これに対しては、いくつか思うことがある。まずひとつは、その話が聴衆の胸を打たなかったのは、それが「二次的な情報」であることが問題なのではなくて、単に論考が浅かったからなのではないか、ということだ。

話すことがない、ということはつまり、自分なりの視点が持てていない、ということだと思う。どこかで聞いたような話を繰り返すだけでは真新しさがないから、聴衆の関心を引かなくて当然だ。

もっとそれをブレイクダウンして、身近な話題まで引きずり下さなくてはならない。当然、自分が生きているのも地球で、環境破壊というのは地球が本来あるべき状態から逸脱してしまう、ということなので、少なからず影響はあるはずだ。そういうのを話せるレベルまで落とし込まないといけない、と思う。
 
もうひとつは、本当に人間は自分の体験に裏打ちされたことしか説得力をもって話せないのか、ということだ。もしそうであれば、エッセイなどを書いていたら、そのうち「体験」のストックが枯渇して、書くことがなくなってしまうだろう。

僕もエッセイを書くにあたり、個人の体験などを引用することがあるが、毎日書いていたらそのうちストックがなくなってしまうかもしれない。それがないのは、ひとつは自分の「思考」をベースに文章を書いているからだが、エッセイという形態に囚われなければ、いくらでもやりようはあるのではないか、と気付いた。

つまり、「虚構」の力を使うことができるのではないか、ということだ。


 
何かを主張するためには、それを言うに裏打ちされた「体験」や「立場」がいる。僕がこうして適当に書き飛ばしているエッセイで、たとえば日本の政策などについて持論を書こうものなら、「どの立場でそれを言っとんじゃい」という話にどうしてもなる。

しかし、虚構の世界ならそれが許される。たとえば、小説の主人公に、それを言うことができるだけの「体験」や「立場」を持たせて、言わせてしまえばいいのだ(総理大臣とか、革命家とかなんでもいいが)。

不思議なことに、フィクションの登場人物が言った言葉も、完成度が高ければ、それが「名言」として認知されることがある。もちろん、それはキャラクターが独自に知能をもって発言したわけではなくて、そのキャラの歴史や背景なども含めて、作者が「創作」しているにすぎないのだが、虚構の世界にすっぽりハマってしまうと、その人物が発言したように「錯覚」してしまう。

これは、人間の脳の機能としてのバグの一種なんじゃないかとまで感じる。本当は、ゼロから作者が作り上げたものにすぎないのに。人間は、虚構を信じる能力が備わっているのだ。


 
自分にろくな「体験」がないと説得力がない、という悩みはもっともなのだが、いくらでもやりようはあるのかもしれない。

少なくとも、虚構の世界でそれを語ることはできる。人間がフィクションに弱い脳の性質を持っている、というのは確かなようだ。

もちろん、説得力をもたすことができるかどうかは、その人の腕次第なのだけれど。

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