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愛読書なんてありません

実際に言われた経験はないのだが、就職活動の面接の際に聞かれる質問として、「愛読書はなんですか?」というものがあるらしい。

どういう意図の質問なのだろうか。人が好きな本なんて知ったところでどうにもならないように思うのだが、しかし自分が面接官であるとシミュレーションすると、どの本を挙げるかによって少なくとも相手が読書家であるかどうかはわかる。相手の思想を確認したい、というよりは、そもそも本を読む人口が減っている昨今、それによって受験者の知的レベルを推し量るというのが狙いなのだろう。



愛読書は何か? というのは意外と難問である。まず愛読書の定義はなんだろうか。読んで感動した本? しかし読んで感動した本でも、それほどたくさん読み返すわけでもない。一回読んだだけでも愛読書に入れられるのだろうか。

考えてみても、僕は自分が愛読書だと自信を持って宣言できるほど読み込んだり紹介できる本はない、と思った。僕は読書をする際に、独自のルールを設けている。どんなに好きな本でも、必ず1年以上は間隔を空けるというルールがあるのだ。同じ本ばかり読むことを防止し、知的好奇心を外へ広げていくための工夫である。しかしこの制限のおかげで、何十回も読み返した、という本が生まれない仕組みになっている。

好きな本は何冊かあるため、この「1年に1回の制限」が解かれるたびに何度も読み返したことはある。長いものだと、5年かけて、5回にわたって読み返した、というものもある。しかし、一番読み返した本でも、せいぜいその程度である。5回読んだぐらいの本は、果たして愛読書と定義できるのだろうか。

そもそも、5年がかりで5回読んだとしても、やはり一番面白いのは最初の1・2回だったりする。だんだんと、読む回数を重ねていくうちに、年月が経っていき、自分自身が変化していくのがわかる。

以前読んだ箇所で感動することが少なくなり、代わりに別の部分に着目したりする。しかし、読めば読むほど、本から吸収できることが少なくなっていく。おそらく、内容の理解が深まったのと同時に、自分自身が変化してしまっているためだと思う。

かつて自分が感動した箇所で感動しなくなっているのは、「自分」がそもそも「過去の自分」とは全く違ったものになっているからではないだろうか。

そのような事情もあり、かつては愛読書だと認定していた本も、時間が経つとベストではなくなってきてしまう。そういう「心の変化」みたいな経験をしているので、自信をもって「これが愛読書だ」と宣言しづらい。過去に読み耽ったものでも、手放しで受け入れられなくなってしまうのだ。

noteに書いてる自分のエッセイ記事に関してもそうで、過去の記事は一切読み返さない。一応書いているときは、そのとき自分が考えていることをそのまま書いているのだけれど、少し時間が経つと、もはやそれは自分ではないもののように感じる。

一度、これまで書いたエッセイ記事のうちよく書けたものをまとめてKindleで配信しようと考えたこともあったが、校正をしているうちになんだか気持ち悪くなってしまい、途中で断念したことがある。数週間程度ならそうは思わないのだが、一年以上経ってしまうとなかなか厳しい。それぐらいの期間が経ってしまうと、自分の方が変化してしまっているらしい。

知的好奇心は外へ外へと発散していきたい。だから読みたいのは自分が読んだことのない本であり、過去に読んだ本にはない。つまり、自分にとって、「愛読書」という存在はなんだかピンとこないのである。「いまの愛読書」なら挙げることができるかもしれないが、来年にはきっと変わってしまっているだろう。

それと同じ理由で、「この本を読んだから変わった」というような体験もしたことがない。今までに読んだ多くの本の中から、少しずついろんなものをもらい、少しずつ変化してきたのだろう、と思っている。

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