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「書く」能力が天井

文章を全く読まない、文字を全く書かない人はもしかしたらいるかもしれないが、誰とも話さない、誰の話も聞かない人は(おそらく)いない。

引きこもりのような生活をしていない限り、誰かと話している時間のほうが、誰かに向けて文章を書いている時間よりも長いのではないだろうか。ネットが普及して、「文字を書く機会」というのは増えたかもしれないけれど、「会話」がコミュニケーションの主体である状況に変わりはないと思う。
 
仕事で、たまに会話を録音することがある。ミーティングの議事録を書くときに、重要な箇所を聞き返すためにレコーダーで録音したりする。いったん、そうやって記録媒体に録音された「会話」というのは、自分がしゃべっているときよりも客観的に聞くことができるので、なかなか面白い。
 
世の中には、いろんなタイプの「話し手」がいる。話がわかりやすい人もいれば、わかりにくい人もいる。思わず「え?」と聞き返さないと、話の論点が掴みにくい人もいる。

原因はだいたいはっきりしていて、その人が言葉足らずなのか、文法がめちゃくちゃなのか、話が飛んでいるか、のどれかである場合がほとんどだ。人は、話をするときは順序立てて話さなければならないが、頭の中では、思考が時系列に行儀良く並んでいるわけではない。うまく整理しながら、言葉にしていかなければならない。

いったん文字として「可視化」してみれば、情報の過不足や時系列の乱れなどがわかりやすくなるのだが、「会話」の最中だと、なかなかそれに気付けない。というより、会話中は、互いの脳が常にそういった乱れに「補正」をかけているのだろう。

コミュニケーション能力の高い人の話が理路整然としているかというと、一概にそうとはいえず、一般的にコミュニケーション能力が高いとみられている人でも、支離滅裂な話をする人は多いように思う。そういう人は、頭の回転が速く、妙に察しがいいから、多少話し方がぶっとんでいても、雰囲気でなんとかしてしまう力があるのだろう。

相手の表情や反応を読み取って、適宜補足説明するような場面もよく見られる。


 
以前、弁護士と話をしたときに、了解をとった上で話を録音させてもらったことがあるのだけれど、録音を聞き返したときに、あまりにも話が理路整然としているので驚いた。話自体は複雑で、非常に込み入っているので理解が難しかったのだが、会話の内容そのものは、主語や目的語がはっきりしているので、驚くほどクリアなのだ。

それは、職業柄、「正確に話す」ことが求められているのだろうし、そういう訓練を積んでいるからなのでは、と思った。
 
コミュニケーション能力というのは、いろんな種類の能力を総合した総称にすぎず、「話す」ことはその一部分にすぎない。しかし、「書く」能力がその人の「話す力」の上限であって、「書く力」を鍛えることで、「話す」能力の精度もあがるのではないか、と思ったのだ。これは、弁護士が理路整然とした話をすることを受けて、思ったことである。
 
どんな人でも、一度書いただけでわかりやすい文章は書けない。僕も、メールやチャットを含む、どんな文章も「二度」は推敲するようにしている。この推敲という行為は「書く」行為にしか存在しない、特殊コマンドみたいなものだ。

会話は、一度口から出してしまったら修正ができず、基本的に一方向にしか流れていかないから、推敲などはしようがない。「書く」行為によってしか磨かれない能力と言えるだろう。


 
たくさん書いて、たくさん推敲するうちに、「話す」精度もあがってくるのでは、と思う。「話す」能力を向上させるには、とにかく話すことも大事だけれど、その能力の天井を決めるのが「書く」能力のはずだ。

どんどん推敲して、推敲しながらものを書いたり、話せるようになれたらいいなと思う。

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