見出し画像

「許さない」の主語は誰ですか?

あんまり自分にない要素なので気になってしまう、というだけかもしれないが、「この◯◯は許されるのだろうか?」的な表現を見ると、少し違和感を感じる。

たとえば、女性が「ミニスカートを履くのは何歳まで許されるんだろう?」みたいなやつのことだ。少しこれについて考えてみたい。

そもそも、「誰が許す」んだろう、と感じるのが最初の違和感である。主語がないのでよくわからない。強いていうなら「世間」だろうか。でも、世間って一体誰のことなんだろうか。

特定の個人が許さない、というのはあるかもしれない。たとえば、母親になったらミニスカートを履くことを許さない、みたいなことを実際に言う人がいるかも。でもそれは個人の問題であって、広く社会的な意味での「世間」とはまた違うような。

日本固有の価値観のようにも思えるけれど、日本以外でもあるようだ。欧米社会は日本社会よりも階級社会的なので、「これは世間的に許容されない」というラインがあるらしい。階級によって飲む酒が違うとか、読んでいる新聞が違うとか、乗っている車が違うとか、住む場所が違うとか、いろいろある。

それを意識しないで生きていると言うことは、逆に自分が平民すぎて、金持ち方面でも貧乏方面でもほとんど何も制約がない、ということなのかもしれないけれど。

「許す」という概念が結構曖昧なように思う。規定で完全に許されないというか、禁止されていることはある。香港に行った時、バーに入ろうとしたらサンダルを履いていたので断られたことがあるのだが、これは自分の居心地が悪いとかそういうことではなく、シンプルに店のドレスコードに引っかかり、入店できなかったという事例だ。そういうことは確かにある。

しかし、「ミニスカートを履くのは何歳まで許されるのか?」というのはまたちょっと曖昧だ。何歳でも別に禁止されているわけじゃない。一方で、「何歳だろうと、ミニスカートを履くのは許さない!」という人はそれはそれでいるかもしれない。

しかし、そういうちょっとおかしな人のことは普通は無視して生きているだろう。

要するに、この場合の「許す」の主語は「自分」なのだろう。「自分」が、それを着ている自分を「許すかどうか」ということである。つまり、そういうことを言っている人は、最初から最後まであなたの中の問題ですよ、ということである。
 
たまに繁華街でゴスロリの格好をしたおっさんが歩いていたりするが、まあ誰もそういう人が闊歩することを許してはいないよな、と思う。まあ、でも禁止することもできないので、許容している、という感じだろうか。いや、どちらかというと無視に近いかもしれない。

法律に触れたり、ルールに違反したり、著しく迷惑をかけたりしない限りは、人が何をしようと行動を制約するものは何もない。基本的にみんな自由なのである。一般的に、若い人ほど周囲の目を気にし、だんだん歳をとってくると気にならなくなることが多いようだ。これが精神的な成熟というやつだろうか。

あなたはどう思いますか?

サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。