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「言い方の問題」で損をしない

社会人になりたての頃、マナー研修みたいなものを受講する機会があり、そこで社会人としての言葉使いについて学んだ。その中で、「クッション言葉」なるものの存在を知った。

そのまま伝えると角が立つような場面で、「恐れ入りますが」「お手数をおかけしますが」みたいな言葉を枕に挟むといい、というのである。まあ、社会で普通に生きている日本人ならば、たいていの人が無意識にやっているだろう。そんなもの、わざわざあらためて習う必要があるのか、と思った。

クッション言葉というのはあくまでもクッションにすぎず、それを言われたからといって特別に場が和む、というようなことは基本的にない。もっと実践的なのは、「言い換え」である。言い換えについてもマナー講座の中で学んだとは思うのだが、なぜか「敬語の使い方」と「クッション言葉」しか記憶になく、あまり重点的に教わらなかった気がする。

仕事では、他人に「これをやれ」とオーダーしなければならない場面が多々発生する。しかし、部下ならまだしも、同僚や他部署の人、ましてや顧客に「やれ」と命令口調で言うと、もちろんトラブルになるし、やってもらえるものもやってもらえなくなる(そりゃそうだ)。なので、柔らかい言葉で言い換えることが必要なのである。

「やれ」ではなく、「やっていただけますか?」にするとかなり丁寧になる。しかし、明らかにこちらの責任範囲のものを他者に「お願い」する場合、チャットやメールなどで「やっていただけますか?」などと書くと、「いや、なんで俺がやらなあかんねん」という反発を喰らうことになる。

なので、「やっていただくことは可能でしょうか」と言い換える。つまり、「やる」こと前提ではなく、「やることそのものを検討頂けますか?」という内容に変えるのである。

もっと相手が偉かったりする場合は、「ご相談可能でしょうか」みたいな感じで、「そもそも、やるかどうかという判断から問う」ものに言い換えたりする。

この場合のポイントは、変換前と変換後の意味はイコールではない、という点だ。単に同じ意味で言い換えるのではなく、より奥ゆかしいというか、間接的な物言いになっている。

社会ではこの「間接的な物言い」が非常に重要であるように感じる。文面ではそうやって間接的な表現になっていても、実質的には「やれ」と言っているのであり、受け取る方もそのように変換しながら読む。

最近では、「これとこれをいついつまでにやれ」という感じの文面で、要求事項をズラズラと書いたものを下書きしてから、上記の如く「言い換える」変換作業をよくやっている。すると、一見すると威圧的に見えないが、内容をよく読むと隙がない、静かな圧力を感じさせる文章が完成する。

たまに、丁寧な文面だが何をやってほしいのか全然わからないメールやチャットを受け取るときがあるが、それとは対照的である。何をしてほしいのかわからないメッセージを受け取ると、ただイライラするだけなので、むしろ失礼だとも言える。

大事なものほど婉曲に、遠回しに、間接的に言う、という文化はわりと好きだ。天皇陛下を呼称するときに「陛下」という言葉を使うが、「陛」とは階段のことである。つまり、「陛下」という言葉は「階段の下」と言っているわけだ。

それだけ聞くと意味不明だが、要するに、天皇陛下ほど高貴な人は、直接的に呼びかけることそのものが失礼だということで、階段の下に呼びかけているのである。通常の国民が、おいそれと謁見できない立場であることを言葉で示しているのだ。

「陛下」のことを英語では”Your Majesty”というが、直訳すると「あなたの威厳」となる。これも、先ほどの「陛下」と構造は同じである。王そのものではなく、「王の威厳」に語りかけている、というわけだ。先日崩御されたエリザベス女王も、英語メディアでは”Her Majesty”と記載されていた。

世の中、「言い方の問題」でイラッとしている人は多い。偏見かもしれないが、女性にその傾向があるようだ。しかし、実際のところ、「言い方の問題」というのは上記のように、ちょっとした工夫でなんとでもなるので、どうでもいいといえばどうでもいいことである。少なくとも自分は、言い方の問題で怒ったことはない(多分……)。

「言い方を丁寧にする」とは、要するに、「直接的なもの」を「間接的なもの」に言い換える作業なのである。よく、京都の人は「遠回しに、それとはわからない言葉使いで苦言を呈す」ことで有名だが、これは直接的に言わない文化の極北だろう。ある意味では、もっとも言語文化レベルの高い人たちだとも言える。

東京の人々は「京都人は裏があって怖い」と思っているかもしれないが、京都の人たちからしてみれば、「本当に東京の人はがさつで、もっと言い方を考えて欲しい」と思っているかもしれない。

そもそも、直接的な物言いを好む人々は、「言い方の問題」で怒ったりはしないのだ。まあ、僕もその部類かもしれないが……。

しかし世の中、「言い方の問題」で損している人がいるならば、ちょっと気をつけるだけで差別化が図れるので、むしろ得だと思ったほうがいいのではないだろうか。自分は、つまらない「言い方の問題」で損をするのは馬鹿らしいので、極力、気を付けている。


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