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機械がすべてを代替する未来では、なんでもやりたい放題なのか?

たまに、「未来の格差」について考えることがある。いまの社会においても格差はあるけれど、未来にはこれがどうなっていくのか? と。

簡単に言うと、これよりも文明が発達し、ますます便利な社会になっていったら、将来的にはどうなっていくのか? ということである。衣食住の心配が完全にいらなくなり、エンターテイメントも十分ある世界、という状態を考えてみる。

AIや機械が人間の仕事の大半を肩代わりしてくれて、そういった労働は必要なくなる。しかし、いくら満ち足りた生活ができるとは言っても、例えば世界中の行きたい場所に旅行に行く、みたいなことはちょっと難しいかもしれない。

旅行には、物理的な移動を伴うので、エネルギーが必要だからだ。もしエネルギー問題をすべて解決するような画期的な手法が出てくればわからないのだが、少なくとも化石燃料に頼っているような状況であれば、それは望めそうにない。海外旅行はいまよりは行きやすくなったとしても、いつでもどこへでも、というわけにはなかなかいかないに違いない。

また、栄養バランスが整っている食事や、快適に暮らせる家などが無料で手に入るようになったとしても、さらにグレードの高いもの、というのは存在するだろう。

たとえば、「時間を正確に知る」ための時計であれば、いまでは百均でも手に入る。1000円も出せば、それなりのデザインのものが売っている。そもそもスマホで十分、という人もたくさんいる。しかし、街に出れば時計屋さんはあり、1万円の時計もあれば、100万、1000万の時計だってある。

つまり、機能とは無関係に「高級品」というのはいつの世の中にだってある、ということである。おそらく100年後でも、「庶民には食べられない高級食材」みたいなものは存在していることだろう。そういったものは、たんに「希少である」ことがそのまま価値になっていたりするので、当然である。

どれだけ文明が発達したとしても、最終的には「人が増えすぎるとアウト」なんだろうな、とも思う。例えば、地球人口60億人だったら快適に過ごせるような設計になったとしても、快適だからといって人口が100憶、200憶と増えていけば、自然とみんなが窮屈な暮らしになるに違いない。

環境問題を含め、いろんな問題が次々に表面化してくるだろう。なので、中国の一人っ子政策などはそれに手を打ったものといえるが、結局少子高齢化が異常に進んだため、廃止されてしまった。

中国というのは、文革しかり、極端なことを大規模にやるので、弊害が表面化するのもダイナミックである。もっと、経済的な事情で自然と人口が抑制されていく、というのがいいのだろう。

例えば、基本的な生活というのは働かなくてもできるが、ある程度の子どもを持とうと思ったら、それ相応のお金がかかるとか。

ここまで読んだ人はわかると思うのだが、「未来」について考えれば考えるほど、それって現代社会じゃん! ということになってしまう。いまは、別にそんなに稼がなくてもセブンイレブンで食べ物を買えば、それなりに安く、おいしく、健康的な食べものが手に入る。これで十分といえば十分なのである。

子どもの数が先進国で減っているのは、先進国であればあるほど教育にコストがかかるので、子どもをたくさん持つことが合理的な選択ではないからである。もちろん、いまよりもよりよい社会になってはいくのだと思うのだけれど、基本的な形はすでにできあがっているといっていい。

太古の社会では、みんな栄養がなくて痩せていたので、太っている人=金持ち、という認識があった。ちょっと前の中国では、太っている人のほうがモテるというのも聞いたことがある。しかし、いまは金持ちは健康に気を使い、健康的なものを食べて運動をよくするため、太っているほうが貧乏人、という認識の時代に移りつつある。

また、昔は貧乏人は忙しく働き、金持ちはゆったり過ごしている、というイメージがあったかもしれないが、現代では金持ちほど、世界中を飛び回って、昼夜問わずに忙しそうに働いている。現代では、職位が上がれば上がるほど多忙になり、下っ端ほど働き方改革などの法律によって保護されているので、比較的ヒマになっている。ここでも、価値観の逆転は起きつつあるだろう。

将来的に、仕事はほとんど機械がやることになれば、たいして能力のない人間は「ヒマになる」のだろう。でも、ヒマでヒマで何も仕事をしないのはカッコ悪いし、そう思われたくないので、一生懸命仕事をして、たいして生活に必要もない高価なブランド品を買い、見栄を張ったりするのだろう。その構図は、世界がどれだけ豊かになっても変わらないのでは、と思う。

なぜなら、その片鱗はすでに現代にも表れているに違いない。未来になればなるほど、テクノロジーがあらゆる問題を解決しているかもしれないが、資源は有限なので、バーチャルな世界に移行しているかもしれない。

「リアル海外旅行」を楽しめるのは一部の富裕層のみで、庶民は「バーチャル海外旅行」を楽しむのかも。本が高価になり、金持ちは「紙の本」を読み、庶民は電子書籍で我慢する、みたいな。

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