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「顔の見える文章」について

文章に対して「うまい」という評価がある。

特に、文芸界隈でこの評価を見かけることが多い。たとえば、新聞記事の書き方を「うまい」と評する人は少ないだろう。「いい記事」というのはあるかもしれないけれど、文章のうまさを評する人は少ない。

新聞記者だって、もちろん文章を書く訓練を受けて、日常的に文章を書いている「文章のプロ」であると思うのだけれど、文章力を称賛する向きは少ない。
 
なんか不思議なことだな、と思うのだけれど、「うまい」と評されやすい文章というのがどうもあるようだ。もちろん、それは「うまい」書き手による文章なのだとは思うのだけれど、「褒められ方」の種類として、「うまい」が適用されやすい文章、そして書き手というのがどうもある、ということだ。
 
僕は「うまい」文章というのがいまひとつわからない。文章というのは、うまい下手で表現されるようなものなのだろうか。

例えば、僕は「視点」というものをとても大事にしている。人と同じような視点で世界をみても面白くない。人とは違った視点で、世の中の事象を見れるようになったとき、たとえ同じものをみていても、違った見方ができるようになるかもしれない。

だから、なるべくエッセイでも、そういったことを書き記すようにしている。

しかし、「うまい」書き手というのは、そういうものを超越した存在のようだ。あらゆる要素を包括していると言ってもいいかもしれない。

表面的には、文体とか、文章の「くせ」が称賛されているのかもしれないが、そもそも視点が独特で、普通の人とどこか変わっていたりする。あるいは、みんななんとなく心に思っていたようなことを、代弁してくれるようなものであるかもしれない。「うまい」ものは、「うまい」と評する他はないのだろう。
 
ただ、下手な文章というのはわかる。素人が書いた小説などを読むと、日本語がそもそもおかしかったり、視点がとっちらかっていたりして、とても読みにくいものがある。

ふだん、本屋などで出版されている本を読むことに慣れていると、その読みにくさはとても目立つ。下手な文章に触れてはじめて、「ああ、今まで普通に読んでいたものは『うまい』ものだったんだな」ということがわかる。
 
僕は、文章というのは兎にも角にも「慣れ」だと思う。毎日書いていれば、こなれてきて、自然にうまくなっていく。書きたいことというのは日々薄まっていくかもしれないけれど、日常の生活の機微や、ちょっとした気づきなどをうまくつかまえて、読みやすい文章に起こす術を身につけられる気がする。

そして、それを積み重ねれば、その人自身の「味」がでてきて、それがいつしか、「うまい」と評されるものに変化するのかもしれない。

新聞記者と違うのは、もしかすると、「書き手の顔が見える」ということなのかもしれないけれど。

「うまい」と評されるのも悪くはないけれど、それよりは、「読みやすい」というのがあるとどちらかというと嬉しいかな。最低でも、「読みやすさ」を備えていれば、自分が本当に主張したいことがあったときに、それを「うまく」伝えることができると思うので。
 
文章は「正確さ」だけではない。「正確さ」だけではつまらないし、うまく伝わらないこともある。

「書き手の顔が見える文章」、それを「読みやすく」書ければいいのかな、と。

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