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ルールを守ること、破ること

「子どもが大人になる」ことに伴う、社会的な変化というのはいろいろあるとは思うが、一番大きなところでいうと、大人になると「ルールを守るのも、破るのも、すべて自己責任」というところが大きく違うと思う。少しそれについて考えてみる。

子どもは火遊びをしてはいけないと教わる。理由は言うまでもなく、子どもが火遊びして火事になってしまったらシャレにならないからである。

「こういうケースは火を使ってもいい、こういうケースは使ってはいけない」というケース別の状況を子どもは判断できないため、大人は一律で「とにかく火遊びをしてはいけない」と教育する。その方針は全く間違っていない。

大人は、火を使っても怒られなくなる。バーベキューのときには火が必要だし、たばこを吸うために火を使っても、全く問題はない。大人であれば、どこで、どういう状況なら火を使ってもいいか、ということが判断できるため、社会的に「火を使うことを許されている」とも言える。

子どもと大人では何が違うのか? というと、大人は「常識があり、分別があり、判断力がある」とみなされているところが違う。その代わり、それが守られなければ、罰が待っているわけだ。



世の中には大小さまざまなルールがある。大人になるということは、何をするにも「判断力がある」とみなされ、その結果を負うという意味で自己責任になるのである。

赤信号が灯っている通りを渡ったらルール違反だが、それを守るかどうかについても、個々人の判断に委ねられている。もちろん、通常の状態だったら赤信号を渡ればルール違反だが、周囲に全く誰もいない夜中の午前三時ごろで、どうしても通りを渡らなければならない緊急の事情があったとしたら? あるいは、大地震で、交通が麻痺しており、もはや信号など意味をなさない状況になっていたら? 

社会のルールは絶対に正しいわけではなく、どういう状況でも適用されるわけではない。大人は、自分で判断して、自分の責任において「ルールを守るか、破るか」を判断する権利がある。子どものうちはまだ判断力がないため、一律で「禁止」されていたかもしれないが、いつまでもそうであるわけではない。

「ルールは、いついかなるときでも守らなければならない」のではなく、「大人は自分で判断していい」のだ。もちろん、それがルールから外れるものであったとしたら、ペナルティを受けることは覚悟しなければならない。



ルールは守らなければならない。もちろん、それは大原則である。しかし、ルールの網の目をかいくぐるのはルールの範囲内である。また、自己責任においてルールを破って、結果として罰を受けるのは個人の自由であると考える。

世の中に新しく生まれるサービスや概念は、既存の概念からするとルール違反だったり、グレーゾーンだったりすることが少なくない。ルールは守るべきものであると同時に、「書き換えることができるもの」ということだ。既存のルールを書き換えて、新しいものを生み出すには、いったん既存の枠組みからはみ出るぐらいの発想力が必要だと思う。

通常の社会であれば「人を殺す」ことはルール違反であり、厳罰に処される。しかし、戦場においては、「人を殺せ」と命じられ、その場から逃げ出すことはルール違反であり、やはり厳罰に処される。絶対的なルールはなく、そのときどきの状況において決められているにすぎないのである。

「このルールは本当に正しいのか?」と疑うことが大事であり、そういったことを「考えられる」のが「大人」だと思う。

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