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細部に宿った神が見せてくれたもの

宮崎駿の最新作「君たちはどう生きるか」を見てからしばらく経った。

見た時は面白いと思ったし、ぜひもう一度見てみたいと思ったのだけれど、しばらく時間が経ったいま、「どうしても」とほとばしる気持ちにはなっていない。

もちろん、見にいくとなれば見に行きたいのだが、超行きたい、という感じではない。時間に余裕があって、まだやっているところがあれば行きたい、ぐらいの気持ちである。

映画に対するスタンスは人それぞれなので一般化が難しいが、自分は好きな映画であれば何度も見に行きたい、と思うタイプである。これまでに見に行った映画の最多は「シン・ゴジラ」で、3回。ストーリーがどうというよりは「このシーンが見たい」というのありきで見に行っているような気がする。

シン・ゴジラは、ゴジラの幼体が蒲田の街を闊歩するシーンや、特別チームが編成されたときのシーンなど、印象的なシーンがいくつもあり、「それが見たい」というのが再視聴の大きな原動力となった気がする。

もちろん、宮崎駿の「最後の作品」だとされていることもあり、本人のエッセンスが凝縮されている作品ではある。なので、考察などはそれなりに面白いのだが、ポイントは、「考察なら、再視聴せずともできる」のである。

自分一人で映画について振り返ることもできるし、YouTubeにも考察動画がたくさんあがっている。なので、もう一度見に行ってみよう、という気持ちにあまりならないのである。

いろんな人が言っているのだが、やはり宮崎駿の真価は「神がかり的なアニメーターである」ということに尽きるのだろう。作画のディテイルがすごすぎて、魔法がかかっている。普通の人が作ったら平凡な内容の作品にも、魔法がかけられていたのだろう。

宮崎駿の作品は名作ぞろいで、子どもの頃から何度も見ているのだが、最近「もののけ姫」の解釈が宮崎駿の意図したものと少し違っているのではないか、ということに気がついた。

もともと「アシタカせっ記」というタイトルだったのをプロデューサーの鈴木敏夫が強引に「もののけ姫」として発表した、というのは有名な話だが、たしかに物語の本質は「もののけ姫=サン」ではない。

村に住む青年アシタカは、あるときタタリ神に出会い、戦闘によってそれを仕留め、村を守るものの、代償に呪いを受けてしまう。その呪いにより、いずれタタリ神そのものになってしまうと長老に見抜かれたアシタカは、村を追われ、呪いを解く旅に出かける。物語の発端も、動機も、「アシタカの呪いを解く物語」なのである。

しかし、このアシタカのキャラクター性は非常に神話的だ。確かに呪いが身体を蝕む様子はあるものの、常に自我を保ち、弱者を労り、奔走する。いつかその呪いが自分を覆い、タタリそのものになってしまう、という緊迫感がひとつのテーマになっていたはずだが、主人公のアシタカはジェントルマンすぎて、誰かに当たり散らすということもないし、呪いを制御できずに誰か罪もない人を殺してしまう、といったこともない。なので、あまり葛藤がみられないのだ。

たしかに名作だし、面白いのだが、もっと脚本として人間臭いものに仕上げることはできるのでは、と思う。しかし、そういう不満を考えさせることもなく、これまで面白く見られたのだから、さすがというべきだろうか。

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