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創作の「居場所」に潜む罠

生きづらい世の中だと言われることもあるが、僕はいまの時代に生まれてよかったな、と思っている。それは、とりもなおさず、インターネットが日常的に使える時代だからだ。

僕はモノを作るのが好きなので、それを発表できる場としてのインターネットがあってよかったと思っている。いまもこうして毎日文章を書いているけれど、ネットがなければ当然発表する場所がないので、そもそもこんなに文章を書くことはなかっただろう。
 
一方で、最近はコロナ禍でちょっと下火になっているが、水面下では、「対面で作ったモノを販売する」即売会の熱が愛好家の間で高まっている。僕も何回か出展した「文学フリマ」や、「M3」などの音楽即売会も、こんな状況でもなんとか運営を続けている。もし、コロナに怯える日々が解消された暁には、さらに伸びを見せることだろう。
 
こうした「対面型の即売会」は、いわゆる「ネット」の対となるものではない。むしろ、ネットの「延長線」にあるものだろう。いわゆる「オフ会」がネットの延長にあるように、あらゆる即売会も、主軸はネットにあり、そのネットの人間関係を現実世界に持ち込んでいるという意味合いのほうが強い(もちろん例外はあるが)。
 
いまの時代、ネット発でプロになる人も増えた。ネットで認知され、即売会で顧客をつかみ、そしてプロ(商業)の世界に転向していく、という流れが一般的ではないだろうか。

僕も、基本はこの流れが多いと思うし、そこに異論はない。しかし、一見するとぬかるみのないこの道には大きな「落とし穴」がある、と思うのである。


 
ネットの世界は広大で、全体を見渡すことは不可能に近い。世界が広大すぎて一覧性がないため、自分の趣味嗜好をベースにネットワークが構築される傾向にあり、気づけばものすごくマニアックな人間関係に拘泥してしまう、ということが多々発生する。

早い話が、ものすごく小さいコミュニティが形成されやすいし、「対面で売る」のはものすごい快感なので、満足してしまいやすいのである。例えば、プロの小説家になったとして、一冊あたりの100円の印税を受け取るにしても、年収400万円を得るには4万部も小説を売る必要がある。

即売会なら粗利率は高いとはいえ、商業ベースで数万人が手に取るクオリティのものに仕上げなければならないのに、目の前の数十人の顧客に販売することで満足してしまう。そう考えると、「ネットや対面で客を掴み、それで商業の世界に乗り込む」というのは、実はあまり相関関係がないのでは、ということに気づくだろう。

作者のモチベーション維持のためには、ネットでの発表や対面での即売会は貢献するかもしれないが、「プロ」になるためには、その一段階上のレベルを目指さなければならないということだ。簡単に言うと、「プロになるためには、ネットや即売会からは距離を置く」ことも、選択肢としては十分に考えられるのである。
 
ネットの世界は面白く、素人でも気軽に作品が発表でき、しかもそれでファンがついてしまう。僕も、販売している音楽をお金を出して買ってくれる人がたくさんいて、海外にもファンがいる。

でも、あくまでそれは「ネットの中の閉じたコミュニティの中で、一定の支持がある」ということにすぎず、それで食っていけるなどと思い上がったりはしない。ネットで支持があることと、プロで食っていくことに相関関係はないと思っているからだ。

2010年ごろ、ニコニコ動画を中心としていろんな人が音楽で脚光を浴びたが、当時の名義のまま、プロとしていまでも活躍している人は十指に満たない。それぐらい、「伝説級」でないと難しい、ということだろう。


 
もちろん、「プロ」にもいろんな形がある。実際、「自分のやりたいこと」よりも、「業界で食いつなぐこと」を目的に、業界で必要とされる仕事(主に裏方仕事)を粛々とこなすプロもいる。それはそれで生き方なので否定はしない。

しかし、それも費用対効果を考えるなら、普通に人の必要とされる業界で稼いだほうが手っ取り早い。そっちのほうが、効率性を重視する世界なので、短時間でたくさん稼げることだろう。やりたいことは、余った時間に趣味としてやればいい。
 
自己実現のため、自分のやりたいことを貫く人もいる。しかし、それは前提条件として、本人に才能があり、世間から高く支持されていることに加え、「効率の悪さ」をカバーするための超人的な努力が必要になる。スタジオジブリの宮崎駿監督作品が優れているのは、効率性などを度外視した宮崎駿個人の天才的な才能と、費やされる労力によって支えられているところが大きい。
 
本当にプロになるのなら、それぐらいの覚悟が必要なのかな、と。ネットやその延長で居場所を見つけて満足しているようでは、永遠にプロにはなれないような気がする。

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