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身を置かないとわからないこと

少し前だが、断食をしてみたことがある。今風にいうと「ファスティング」で、一定期間、ものを食べないのである。自分ひとりではなく、奥さんと一緒にやった。

断食とはいっても、全くものを食べないわけではなく、具なし味噌汁を三食食べる(飲む?)。また、その断食に入るまでに食べるものを徐々に制限していって、断食を終えてからも同じように食事を戻していく等、やり方があるので、それに従って準備をした。
 
現代は飽食の時代とよく言われるが、そういった体験をしてみると、肌感覚でよく実感できた。普通に現代日本で暮らしていると、丸一日固形物を食べない、という状況にはまずならない。

うちにはあまり食料品の備蓄がないが、都度コンビニやスーパーに行けばすぐ買えるので、問題は発生したことがない。なので、人為的に作り出したとはいえ、「食べ物を食べない」機会は貴重であった。


 
映画や小説などで、登場人物が極限状態に置かれているシーンがあるが、それを見たり読んだりしている側は良いコンディションでそれを視聴しているため、極限状態に共感することが難しい。

特に、飢餓状態に置かれた人がどういう精神状態になるのか、というのは頭では理解できても、なかなか実感としては捉えづらい。

断食などで固形物をしばらく食べずにいると、最初のうちは問題ないのだが、だんだんと飢餓の感情が芽生えてくるのを感じる。お腹が減るというより、食べ物のことしか考えられなくなる感じだ。

断食の日は映画を見ていたのだけれど、食事をしているシーンを見るのが苦痛なほどだった。それほど、食べ物に対して執着している自分を感じた。
 
いまの人は欲望が少ないという。それもそのはずで、基本的には満ち足りているからだろう。江戸時代の人が見たら、殿様のような暮らしを普通の庶民がしている。

なので、時折断食という体験を日常の中に挟んでみるのも、意外と大事なことのような気がしている。断食といえば、イスラム教のラマダーンが有名だが、主旨としては「食べ物を手に入れられない人の気持ちがわかるように」という意味も含まれているのだとか。


 
歴史を紐解くと、戦争を起こしたり、革命を起こしたりする人々のエネルギーはすさまじく、どこからそんなエネルギーが湧いてくるんだと思ってしまったりするものだが、もちろん「必要だから」やったのだろう。平穏な社会で満ち足りていたら、あれほどのエネルギーは出なかったに違いない。
 
押さえつけられている、欲望を制限されている、というのはエネルギーになるということなのかもしれない。もし、そういう環境でなければ、定期的にそういう環境に身を置くのも選択肢のひとつかもしれない。

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