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解釈を委ねる、見出す

かなり久しぶりに映画「プライベート・ライアン」を見た。以前、DVDを所有していたのだが、Amazon primeでサブスク配信されていたので、ありがたく見させてもらうことにした。

監督は巨匠スティーブン・スピルバーグで、主演はトム・ハンクス。トム・ハンクスは僕の最も好きな俳優なのだが、なんの役をやらせてもそれを自然に演じてくる。その演技の幅の広さが魅力だ。
 
もう20年も前の作品なので、ネタバレも何もないだろうから、ある程度は自由に書くことにする。プライベート・ライアンの原題は”Saving Private Ryan”となり、シンプルに和訳すると「ライアン二等兵の救出」となる。とある事情により、ライアン二等兵を探し出して、本国に送還させるため、8人の救出隊が結成される、というのが本筋となる。
 
とにかく激しい戦闘シーンで知られ、描写のリアルさからもかなり有名な作品ではある。ひさびさに見返したものの、3時間の映画上映時間中、大半の時間が戦闘シーンに割かれ、なかなかすさまじい映画だなと思った。前回見たのはもう何年も前の話だったので、戦闘シーンがすさまじいというのはなんとなく覚えていたのだけれど、ここまでだったかな、とは思った。
 
見終わったあとで、映画の感想をネットでチェックしていると、「この作品のテーマって一体なんなのだろう?」と思わずにはいられなかった。一応、物語の本筋としては、「ライアン二等兵の救出」がテーマなのだが、そのライアン二等兵を救出するために救出隊が組織され、たった一人を救うためだけに多大な犠牲が払われることが描写される。

人の命を天秤にかけることの本質的な矛盾、一人を救出するために何人もの兵士が死んでいくことに対する不条理のようなところが、本作の醍醐味なのかなと思っていた。しかし、コメントを書いている人を見る限り、映画の戦闘シーンそのものを賞賛している人もいるし、当時の戦争を知るための資料的な意味合いで見ている人もいる。もちろん、先ほど述べたように、「ライアン二等兵を救出するための本質的な矛盾」に焦点をおいている人もいるし、登場人物の成長に主眼を置いている人もいる。

解釈が人それぞれなので、他人の感想を見ているのも面白い。


 
その感想を読みながら、僕は別のことを考えていた。僕は毎日、日記をつけているのだが、その習慣は僕が高校生ぐらいの頃からずっと続いている。基本的に「書きっぱなし」で、ほとんど読み返すことはないのだけれど、ためしに昔の分の日記を読み返してみた。すると、色々と忘れていたことを思い出すことができた。
 
面白いのは、日記というのは基本的には毎日、その日にあったことを書くものだから、日記の中には「時間軸」がないのだ。日記には、いつだって「その日」のことしか書かれていない。だから、過去を振り返って自分がかつての日々に「意味」を見出すのは、それは「後付け」なのではないか、と思えた。

つまり、日々の生活には本当は意味なんてないのに、自分であとから意味をつけているのだ。物語性を加えている、といってもいい。日記そのものは、その日のことをただ単に記しているだけだから、面白くもなんともない。毎日起きて、何かの活動をして、寝る。それがひたすら繰り返される。
 
それと同じく、映画を見るという行為は、自分で「意味を探す」行為なのかもしれない。もちろん、通俗的すぎる作品であれば、製作サイドがこれでもかと「意味の押し売り」をしてくるので、じっくりと考える余裕はない。

「プライベート・ライアン」は、リアルな戦場を描く作品でありながら、その映画の意味するところについては、視聴者に解釈をぶん投げていて、そこがすごいところだと思った。何もこの映画に物語性、意味を見出さなければ、「ただ戦闘シーンが凄まじい映画」というだけの感想で終わるだろう。


 
人は意味を求める生き物だ。だからこそ、意味を与えられるのではなく、自分で意味を見出す力が必要だ。そして、本当のことを言えば、別に意味なんて求める必要もないのかもしれない。

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