見出し画像

都会に住むひとは、あまり友達を必要としない?

自分はあまりたくさん友達がいない、ということを書いたことがある。それは確かにそうで、日常的に付き合う必要のある友達はほぼゼロだ。

よく会う人で、半年に一回会えばいいほう。半年に一回、数時間会うだけだから、関係性としては希薄といえるだろうか。でも、普段は意識していないものの、人間関係としてはもちろん継続している。自分としてはそれぐらいでちょうどいい。

古くからの友人というのはいるけれど、いわゆる「親友」的なポジションの人はいないな、と思う。

考えてみると、一般的な意味での友達というのは不思議な概念である。家族でもないし、仕事相手でもない。

たとえば野生動物に友達という概念はあるのだろうか。群れで生活する動物なら、一緒に生活をする仲間などが該当しそうだが、どちらかというと「家族」とか「仕事仲間」といったほうが近い。野生動物に純粋な友達というのはあまりいなさそうな気がする。人間にしかいないのだろうか?

街を歩いていると、よく集団でウロウロしている若者を見かける。いままで気づかなかったのだが、意識して探してみると、結構見かける。先日も7・8人ぐらいで歩いている集団を見た。

あくまで見た感じではあるが、あんまり目的はないように見える。ダラダラ歩いていて、けっこう暇そうである。強いて言うなら「暇をつぶす」のが目的なのだろうか。となると、「暇をつぶすことを目的とする集団」ということになる。

僕は友達といないと暇がつぶせないということは全くないので、「そういう付き合い」の友達はいない。当たり前である。ということは、いかに友達とはいえ、つるむにはなんらかの目的が必要、ということになる。それが暇つぶしといったようなものであったとしてもだ。

仕事帰りに飲みに行くサラリーマン集団もそんな感じだろうか。僕は仕事上必要な付き合いであれば行くが、そうでなければ行かない。仕事上での必要以上の付き合いをする人は、それでもなんらかの目的があったりするのだろう。愚痴を聞いてもらいたいとか。

しかし、自分も高校生ぐらいまではたいした意味もなくつるんでいる友達はいた。やっぱり暇つぶしのために一緒にいた、という感じだったのだろうか。大学生に入ったあたりからライフスタイルが変わり、自然とそういった人たちは周りからいなくなった。こっちのほうが自然な感じはある。

友達を「なんらかの目的のために一緒にいる人間関係」と定義するならば、「都会に住む」ことは「友達を減らす」ことを意味する。都会に住めば暇はいくらでも潰せるし、生活するうえでも一人で十分成立するからだ。

また、田舎の場合、友人関係がそのままビジネスに結びついていたりする。田舎で商売をやるとなると、人間関係がビジネスに直結する。なんらかの会社に所属していたとしても、組織が小さいので、やっぱり「顔馴染み」といったものが関係性の中心になる。となると、やっぱり都会よりは人間関係が重視される、ということになる。

それは本当の友達とは違うかもしれないけれど、表現としては「友達」ということになるだろう。確かにそういったものは存在するかもしれない。

友達の利点は、ある程度素性が知れている、ということがあるだろう。全く得体の知れない人と何かをやるのはリスクがあるが、友達ならある程度は勝手がわかる。信用し切るかどうかはさておき、赤の他人よりも信用できるだろう。なるほど。

野生動物に友達はいるのか? という疑問に戻ると、やっぱり野生動物に友達はいないのではないか、と思う。人間のほうが動物よりもはるかに「目的」の種類が多いからだ。

あなたはどう思いますか?

サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。