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なぜ、ネット空間でも人間関係をリセットしたくなるのか?

会社など、「仕事で繋がった強制的なコミュニティ」を除けば、あまり友人がいない、という現代人は多い。なので、趣味をベースにした人間関係を重視する人は多いのではないか、と思う。

しかし、「趣味の繋がり」を観察していると、どうしてもタコツボ化していくというか、独特のコミュニティが形成されていくものだと思う。あくまで「趣味」の範疇だったらまだいいが、小説や音楽などのクリエイティブな世界の場合、「プロ」や「プロもどき」がそこに混入してくるので、少し話がややこしくなる。

個人的に肌に合わないのは、身内同士で褒め合うような文化である。もちろん、本人同士はそこに所属していることで満足感を得ているのだとは思うが、閉じたコミュニティの中で安定してしまうと、批評精神が育たず、発展性がない。だから、僕はあまりそういうところには近寄らないのだと思う。

昔、作家志望の人が集う、あるウェブサイトをよく利用していた。そこはオープンなコミュニティであり、会員登録なども必要なく、誰でも匿名で参加することができる。

小説作品を投稿すると、それに対して、読んだ人がコメントをつけてくれる。それで、いろいろな指摘をもらって、作品を磨いていくのだ。

もちろん、的を射た的確な指摘もあれば、揚げ足取りとしか思えないような指摘や、謎の上から目線の「小説論」みたいなものが展開されることもある。普通、素人が書いた小説にはコメントどころか読んでくれる人すらなかなかつかないのに、かなり香ばしいサイトである。

色々な問題点はあるものの、きちんと利用する人がいるという点ではなかなかよく、とりあえず読み手はたくさんいるので、どんどん投稿したくなる。しかし、ここで常連になりすぎてしまうと、だんだんとタコツボ化している人間関係に絡め取られてしまうのである。

つまり、そこの「常連コミュニティ」に帰属していることを前提に、短い作品を頻繁に投稿し、常連から褒めてもらうことで、承認欲求を満たす、みたいなコミュニティが出来上がるのである。そういう人たちは、その閉じたコミュニティの中では高く評価されているが、そのコミュニティの外に出たとたん、全く評価されない、ということになってしまう。現に、その常連コミュニティの人がプロの書き手になった、という話を聞かない。

ただ、普段から利用しているというよりは、「ときどき、意見をもらうために」利用していた人が、新人賞をとってデビューした、という事例はあるようだ。コミュニティに所属していた、というよりは、その「場のオープンな部分」を活用して、自分の成長の糧としたのだろう。

そういうコミュニティを観察していると、「有名人」という言葉の認識がバグってきてしまう。閉じたコミュニティの中の「有名人」とは、いったいなんなのか。

お互いの存在を相互方向に認識している状態は、さすがに有名人とは言わないだろう。やはり、一方向にしか認識のベクトルがない状態でないと、有名人とは言えないのではないだろうか。たとえば、学校の有名人といえば、誰もがその生徒のことを知っているが、その生徒自体は全校生徒のことを知らない、というような状態のことだ。

もう少し広げて、業界の中ではけっこう名前を知られている、ぐらいだとまだ「身内」感は否めない。全然それについて詳しくはないけれど、名前だけは知っている、ぐらいがやはりすごい「有名な」人なんだろうな、と。たとえば、将棋の世界でいうと、羽生善治や、藤井聡太などである。

自分でいうと、大谷翔平のすごさや実績はよくわからないけれど、とりあえず名前と顔は一致する。それは、クローズドなコミュニティで評価されているわけではなく、きわめてオープンなところで評価されている、ということである。

今ではミュージシャンとして世間一般に広く認知されている米津玄師も、10年ちょっと前は、ニコニコ動画で活躍している動画配信者のひとりに過ぎなかった(もちろん、当時から界隈では非常に有名ではあったが)。そういったコミュニティから抜け出し、メジャーデビューして、外へ外へと広がっていった結果が今なのだろう。

「発展性がない」「批評精神が育たない」という点で個人的には居心地が悪く、あんまりタコツボ化したクローズドなコミュニティには身を置かないようにしている。だから、そういうところで発生する人間関係のストレスは少ないかもしれない。

「定期的に人間関係をリセットしたくなる」とSNSでつぶやいたり、実際にアカウントをリセットしたりする人はいるが、自分はそういったこととは全く縁がない。そもそも、そういった人間関係がないからだ。

趣味だとどうしても群れたくなるが、自分はあんまり群れないだろうな、と思う。noteだと、不特定多数の人が読んでくれているので、そういう煩わしさはほとんどない。

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