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どうぶつの森は理想社会なのか?

ゲーム「どうぶつの森」において、なぜ労働や拝金主義がほのぼのと成立することができるのか、と分析した記事を読んだ。

僕自身は「どうぶつの森」をプレイしたことがないのだけれど、どういう作品なのかはなんとなく知っている。どうぶつたちと一緒に暮らしながら、いろいろなアクティビティをするゲームだと認識している。決められた目的があるわけではなく、個々人の遊び方に委ねられている自由な遊び方ができるゲーム。

この記事を読むと、お金の概念も存在しているようで、完全に現実とは異質のファンタジー世界というわけでもないらしい。

「どうぶつの森」の世界には人間がいないようだ。プレイヤーを除けば、どうぶつたちが唯一の住民であるため、人間特有の競争や比較が存在しないらしい。だから、「人間同士のギスギスした関係」がない。それが息苦しさを軽減させているという考察。これは興味深い点だ。

現実の社会ではどうしても他人と自分を比較してしまうことが多いが、それは相手が「人間」だからだろう。会社に出社しても、周囲がたぬきとかうさぎとかだったら、「彼らは彼ら、自分は自分」と自然に思えそうだ。もし、度を超えて異常な人がいたとしても、どうぶつなら仕方ないか、と諦観できる。

そこまで考えたところで、僕は「どうぶつの森」の世界は現実世界では「海外に行く」ような感覚に近いのではないかと思った。日本にいると、どうしても周囲の目、社会の目を気にしてしまうところがある。しかし、外国に行くと、自分がそもそも異質な存在なので、周囲の目といった束縛から解放され、自由な気分になれることが多い。

このあたりは考え方ひとつな気がしている。相手を同じ人間だと思えば、どうでもいいマウント取りに汲々とする羽目になる。会社に行っても、相手をたぬきとかうさぎとかだと勝手に思えばいいのだ。

「どうぶつの森」の世界では、(ゲームの中の世界なので)死という概念がないというのも大きなポイントのようだ。現実世界では、食べ物を摂らなければ死んでしまうし、日本のように資源の少ない国では、石油を買うために働かざるを得ない。

石油を買うために日々働いていると感じている人は少ないが、現に日本は石油を買うためにものを輸出しなければならず、意識していないだけで結果的には石油のために働いている側面がある。産油国のように豊富な資源がある国では、悠々自適に暮らしている人々もいるかもしれないが、少なくとも日本においてはそうはいかない。

どうぶつの森においては、社会を維持するためのエネルギーが必要ない。電気や水道などのインフラも、どこからともなく供給される。食事や排泄、睡眠も、イベントとしては存在するかもしれないが、生理現象ではないだろう。

ある意味、天国のような世界観である。

どうぶつの森のような世界は理想的ではあるかもしれないけれど、ずーっとこういう世界で暮らしたいか、と言われたら、ちょっと疑問な感じもあるけど。仕事に行きたくないなぁと思う日があるからこそ、休日が楽しみになる。ずっと休日だとつまらないだろう。人生はそういうバランスで成り立っている気がする。

キャンプだって、たまに行くから非日常が楽しいのであって、それが日常になればただの野宿である。東京で、人間に揉まれて暮らすのも、これはこれで別に悪いものではない……。

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