見出し画像

書き捨てる

このnoteで毎日記事を更新しているが、基本的に過去に書いた文章は全く読み返さない。たとえば、去年のいまごろはどういったことを書いていたのかな、などと見返すことは皆無である。

以前、これだけ毎日書いているのだから、記事をまとめて本にしたり、kindleにしたりするのは面白いのではないか、と思ってやろうとしたことがあるのだが、早い段階で挫折した。

そもそも文章の量が多すぎる。一日平均1500字ほど書いているので、年間にすると50万字を超える。これは一般的な書籍の3〜4冊に相当する。だいいち、過去に自分が書いたことを読み返すと稚拙さにうんざりしてくるので、全く楽しい作業ではない。なので、すぐにやめてしまった。

以前は、過去に書いたことと重複していると不都合があるかなと思って、検索をかけていた。思いついたことで、過去に書いたテーマと同じことを書いてしまい、「あれ、こいつ前も似たようなことを言っていなかったか?」と思われることを防ぐためである。

しかし、別に全記事をくまなく読んで記憶している人は間違いなくいないだろうから、別にいいかと思い、最近はそれもあまりしていない。たとえ過去に書いたことであっても、そのときといまの自分では考え方が微妙に変化していると思うので、内容としてはちょっと違うものになるだろう。それでいいのではないか。

過去に書いた文章を読み返さず、ひたすらネットの海に書き捨てている。幸いなことに、ネット空間が保管できるデータは膨大なので、こういったテキストベースのものであれば、ほぼ無尽蔵に「捨てる」ことができる。これは、自分にとっては、かなりありがたい環境だ。

書いた文章を読み返さないのであれば、なぜ書くのだろうか。それは、ものを考える踏み台にするためだ、と思う。

何かを考えて、文章にして、ネットに捨てていく。頭の中でぼんやりと考えているだけだと、堂々巡りして、何年経っても同じことを考え続けているかもしれない。しかし一度文章にして捨てていくと、それを踏み台にして次の思考に踏み込める。それが面白いんだと思う。

ある意味、自分の考えに執着することを捨てるために文章を書いている。読み手のことは一切考えていないので、僕が書いては捨てていく場所(noteのこのページ)に来て、何か使えるものがあったら拾っていってもらえたら、という感覚である。

最近、小説作品をまた書きたいな、と思っている。小説はnoteのエッセイよりは「残す」意義がありそうだ。有名な作家になると、全集なども組まれたりして、初期作品と後期作品で対比されたりもする。

でも、小説だって基本は「書き捨て」なのかな、と思う。過去に書いた小説を読み返すと、面白いと感じることもあるけれど、その頃の時代といまの時代は違うし、書き手である自分自身もどこか幼いなと思う。小説作品は芸術品なので本当に「捨てる」必要はないが、作者がそれを見返す必要はあまりないのだろう。

過去に書いた小説作品をkindleにして配信しようかと思い、手直しをしている。しかし、加筆修正もほどほどにしたほうがいいかな、と思っている。決して手を抜きたいというわけではない(それも少しはあるが)。

そのときの自分にしか書けないもの、そのときに「書き捨てて」きたものを、いまの自分が拾ってきて、見栄え良く成形するのもなんだか違うかな、と思うのである。

一般的に、駆け出しの書き手ほど自分の文章を大事にする傾向にある。「せっかく書いたのだから、たくさんの人に読んでほしい!」という気持ちも強いだろう。しかし、だんだん書いた文章が増えていくと、むしろこの「捨てる」感覚もついてくるように思う。

僕はもうどれぐらいここに書いてきたかわからないので、記事の一本一本に思い入れなどほぼ皆無である。しかしそのおかげで前進してきたような感覚はある。

人間は日々進化していくもの。しかしそれを記録しておかないと、何がどう変化したのかが見えにくい。見返す必要はないが、記録して、それを意識から捨てていくことは必要かな、と。

もっともっと書き捨てていきたい。幸いにも、捨て場所のスペースはほぼ無限である。

サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。