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効率的な読書に意味はない

おそらく僕は普通の人よりはたくさん本を読むほうだとは思うのだけれど、「読書記録として重要部分を抜き書きするかどうか」については、そのときどきで考え方が違っており、やったりやらなかったりする。

いまは、「やらない」という方向で、概ね統一している。もちろん、仕事で読まなければならない資料の場合は、読み返す時間を短縮するために下線を引いたり付箋を貼ったりするが、一般的な読書の場合、そういったメモを作るべきかどうか? というのは、昔からのテーマではある。
 
電子書籍であるKindleの場合、蛍光ペンのように文字を装飾することができるのだけれど、そうやってマークした場所は、自動で「抜き書き」がされていて、あとで専用のサイトにアクセスするとまとめて読むことができる。

その抜き書きは、要するに、自分が読んで面白いと思った部分がエッセンスになってまとまっている、ということだ。当然、いいと思った本はたくさんの抜き書きがあるし、そうでなかった本は少ない。
 
問題は、この手の抜き書きに「価値はあるのか?」ということだ。重要だと思った箇所であることに違いはないので、その本の重要な部分が詰まったエッセンスだ、とみなすこともできる。

しかし、それだけだと、その文章の前後の文章がないので、本当に意味がとれるのか? という疑問もある。
 
「その本を通読したことがある人(=自分)には意味がある」、ということはあるかもしれない。その箇所が重要なエッセンスであることは確かなのだけれど、その抜き書きされた文章自体に意味があるのではなくて、その重要な文章を「トリガー」にして、「他の部分も思い出せる」ということに価値がある。

だから、その本自体を通読したことがない人が読んでも意味がなく、自分専用の抜き書きだ、ともいえる。


 
そうやって考えていくと、「重要なことを箇条書きにする」ことは、本当に重要なのだろうか? ということも考える必要が出てくる。僕は、自分自身がずぼらなこともあってか、大量の文章を読むわりに、重要な部分をまとめる、という行為があまり好きではない。

こうやって日々書いている自分のブログも、普段から自分が考えていることをまとめて書いているのだけれど、たとえばネタ帖のような感じで、アイデアを書き溜める、ということがない。むしろ、この記事そのものがネタそのもの、という感じで書いている。忘れてしまったら、忘れてしまう程度のことだったんだな、と思ってすぐにあきらめる。

そういう感じで生きているので、「本の内容を忘れる」ぐらいはそんなにたいしたことがない、と思っているのかもしれない。重要な内容だったら、自然と覚えているだろうから、忘れる時点で大したことがない内容だったんだな、と割り切ることができる。
 
実際のところ、抜き書きをしても、それだけを読み返すことはほとんどない。「いい本」というのは、その内容を深く理解するためにも、時間をおいて繰り返し読むべきだと思う。いい本というのは、エッセンスの部分だけで成り立っているのではなく、自分が着目していなかった部分も含めて、全体をもってして成立しているのかもしれない。

「重要な部分だけわかればいい」というのは、音楽で例えるならば、「サビが一番盛り上がるところなのだから、サビだけ聞けばいい。しかも、ワンフレーズだけ」というのに等しい。

イントロやAメロだって、地味かもしれないけれど、曲を構成する「重要な」要素なのだ。


 
だから、本を評価するときは、「再読したいかどうか」、というのは重要なファクターだと思う。いい本というのは、どういうところがよかったのか、「まとめる」必要はない。

ただ、また読み返せばいいのだ。そうすれば、「深く理解」することができるだろうから。
 
おおよそ、読書ほど「効率を追求することが無意味」なものはないと思う。時間をかければかけるだけ、得られるものも大きい。

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