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そして、一人ではなんにもできない社会へ

ブログやnote、YouTubeなどで、「時間の有効活用」について語っている人は多い。「時間」が人間の持っているリソースのうち、増やすことができず誰しもが平等であることから最高に重要なものだとして、それを最大限に有効に活用するべきだ、と主張しているのだ。

最近読んだ記事では、「主婦がスーパーで10円安い牛乳を買うために遠いスーパーに行くのは本末転倒だ」ということを説いていた。安いスーパーに行くために移動をすると、10円以上のコストがかかるため、結局意味がないというのだ。

そこまでだったらまだいいのだけれど、「だからこそ、その時間を10円以上稼ぐ方法に向けるべきだ」という結びにしていた。
 
僕も、時間というのは増やしたり減らしたりできず、人間にとって何かを行う際の重要なリソースだから、最大限活用する方法を考えたほうがいい、と思う。しかし、そうやって「時間の効率化」を突き詰めることが本当に正しいのだろうか? 

「10円安い牛乳を買うために遠くのスーパーに行く」というのはたしかにかなり無駄であると思うのだけれど、一方で、多少労力をかけてもお金が節約することができるのならば、それはそれで有用なのではないか、と思うのだ。「お金を稼ぐこと」は多少なりとも不確定な要素を含むが、「節制」を実行すれば確実にその分の支出は減るのだから。

そもそも牛乳を買わないとか、近くのスーパーで割引シールが貼られるタイミングで買いにいくとか、いろいろ支出を抑える方法はあると思うのだが、ここではいったん節約については脇においておこう。
 
興味深いのは、そうやって「時間や労力を惜しむ」というか、それを外注してでも効率化しようとする人たちが世の中にいるおかげで、世の中の仕事はどんどん細分化されている、ということだ。

たとえば、家事代行というサービスがある。掃除や洗濯などは「誰でもできる作業」に分類されると思うのだが、「掃除することは自分にとって有効な時間の使い方ではない」と考える人たちがいるおかげで、そういった仕事が職業として成立している。

本来は自分でやるはずの仕事が細分化されて、新しい職業が生まれている。そうやって、資本主義社会はどんどん複雑になり、お互いがお互いに依存して成り立っている。

その先にあるのは、一体なんなのだろうか。


 
忘れてはならないのは、「身の回りのことをすべて自分でやることができれば、そもそも稼ぐ必要がない」という視点だ。もちろん、家事代行など頼む必然性はどこにもない。自分ですべてやってしまえば、一円も払う必要はない。

いまは他者や既存のサービスに依存して、自分の得意かつ好きな分野でのみ働けばいい、という発想の人が増えている。一方で、自分の意思で、まったくその逆を行くこともできるわけだ。
 
先日、たまたまついていたテレビで、電気を一切使わない暮らしをしている人のことを取材していた。なんでも、電力会社に頼んで回線を切ってもらい、電気を一切使わない生活を何年も続けているのだとか。料理なども、太陽光を使って加熱調理したりしている。

ちょっとそれはいくらなんでも極端すぎるので、変人にも程があるなと思うのだけれど、ある意味、現代文明に「依存しない」という観点では「強い」存在だと言えるかもしれない。

決してその生活が素晴らしいというつもりはないが、浮いたと喜んでいる月々数千円以上のものをきっと受け取っているように思う。なんせ、日本中が停電したとしても、その人だけは「日常生活を、変わりなく」送ることができるのだ。
 
時間を有効に使う、ということは、言い換えるならば時間を自分の得意なことに振り分け、より多くのカネを稼ぐ、ということだ。しかし、みんながみんな、この生活をするようになると、細分化されたニーズが増え続け、世の中の仕事はどんどん細切れになり、複雑になって、相互依存しすぎてしまう。

「不得意なことに対してはカネを払って、もっと楽に」というのは非常に資本主義的な考え方なのだけれど、その果てにあるのは本当に効率化された、幸せな社会なのだろうか。


 
自分でできることを自分でやり、少しでも他人に支払うカネを減らす、というのも立派なことだし、自分の暮らしをシンプルにする手立てとしてはかなり有効であるように思う。

10円の節約ではささやかすぎるかもしれないが、1万円余分に使うカネを減らすことができれば、1万円収入が少なくても問題がない。そうやって自分の生活をシュリンクさせていくことが、シンプルでわかりやすい人生に繋がるような気がする。

得意なことだけをやって、稼げるだけカネを稼ぐ、という人生もアリだとは思うけれど、本当に幸福なんでしょうか?

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