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野菜がおいしくないわけがない

東南アジアから日本に移り住んできた外国人を何人か知っているが、みんな口を揃えて「日本の野菜は甘い」と言う。

彼らの故郷にも当然ながら日本にもある野菜を使った料理があり、たまにそういった故郷の料理を作ったりもするらしいのだが、日本の野菜と故郷の野菜では味が全然違うので、仕上がりも変わってくるのだそうだ。もちろん、日本の野菜のほうが美味しい、というケースも多いのだが、とにかく「甘い」ので、なんか味が違う、と感じるケースもあるのだとか。

確かに、東南アジアに行った時などに口にする野菜は、もっと野生的な味がするような気がする。なんというか、ヘタとか芯とか皮といった部位が、日本で食べるものよりもずっと大きいような気がするのだ。
 

野菜というと「自然の恵み」の代表格のような気がするが、実際のところは「人工物」の最たるものだろう。

たとえば100万年前にタイムスリップしても、ある程度原始的な機械は頑張れば作ることができるが、「野菜」はその時代に行っても、決してゼロベースで作ることはできない。

いまでは食べやすくておいしい野菜も、人類が人類にとって食べやすいように交配を繰り返して作ったものになる以前は、味もほとんどなく、食べるところが少なく、栄養価も低かったに違いない。いま食べられる代表的な野菜の原生種などをネットで検索してみると、ほとんど雑草と見た目や性質が変わらないものもある。

果物のバナナやみかんなども、どう考えても人間が食べるために生まれてきたようなデザインだが、あれはもちろん最初からそうだったわけではなくて、人類がそういう進化を仕向けたのだ。最近でもさらなる改良が重ねられているが、ああいう状態になるまでにも相当な時間がかかったに違いない。
 
日本の場合、肉なども柔らかいものが好まれるため、それも食品として特徴的である気がしている。これもやっぱり、外国に行くとまず肉の硬さに驚く。

しかし、「柔らかい肉」が「いい肉」とされ、際限なく柔らかくなっていってしまう、というのもどうなのかな、という気もしてくる。もちろん、硬い肉と柔らかい肉だったら、そりゃ柔らかい肉のほうが食べやすいし、おいしいのだが、野菜にしろ肉にしろ、なんだか幼児が食べるために品種改良されているような気がする。

最初、「野菜が甘い」と言われたとき、それが日本の技術力だと感じもしたけれど、同時に、ちょっとバカにされているような感じもしたものである。まあ、思い過ごしかもしれないけれど……。
 

いずれにしても、最近の野菜というのは本当に甘いので、野菜ぎらいの子どもも、昔と比較したら減ってるんじゃないかな、と思う。僕は野菜スティックが好きで、にんじんなどもよくそのまま食べているが、にんじんが好きだというより、そもそもにんじんがおいしすぎるだけなのでは……、というような気がしてくる。
 
品種改良に励むのはもちろん結構なことではあるのだけれど、「甘さ」「柔らかさ」を追求するだけの方向性だけでいいのかな……と思ったのである。もっといろんな価値観が台頭してきてもいいのでは、と。

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