見出し画像

騙すリアル

映画を見ていて、「CGっぽさ」を感じるときがある。怪獣など、あまりにも非現実なものの質感が、ほかの実写の映像から浮いて見えるのだろう。

だから、そういうものを見ると「映画のCGなんて、所詮はこんなものか」とつい思ってしまう。
 
でも、そういった映画のメイキングを見てみると、驚くことになる。というのも、「実写だ」と思っていた部分が、実はCGだったりすることがあるのだ。

特に、機械や風景などは、もうほとんど実写とCGは見分けがつかない。CGだと思った部分はもちろんCGなのだが、他にもCGはたくさん使われており、むしろ最近の映画なんてのはCGだらけだということだ。

ということは、そういったCGは、CGだと思わせないことに成功しているわけで、完全に「騙せて」いることになる。もちろん、ビルの破壊シーンなどは、実際にビルを破壊するわけがないので「これはCGだろう」と思ったりすることはあるわけだけれど、映画に没入していて「CG」であることを実感させなかったら、CGとしては成功している、ということになる。
 
* 
 
僕たちは、どういうときに映像をCGだと感じて、どういうときには感じないのだろうか。

ここでポイントになるのは、「CGだと感じるかどうか」という「感覚」のみが重要なのであって、実際がそれがCGであるか否か、はポイントではない、という点だ。

要するに、「いかにして騙すか」がすべてであり、騙すためにリアリティを追求するのがCGだということだ。
 
現実にあるものをそのまま再現したら、逆に作り物っぽく感じることだってある。宮崎駿は、作画をするときに、あえてパースを不正確にすることがあると聞いた。人間のパース感覚というのはかなりいい加減で、「錯視」という現象があることからもそれはわかる。

何かを忠実に記録に残すために写真を撮っても、かえってわかりづらくなることを経験した人もいるのではないだろうか。写真だとわかりづらいので、図やイラストを使って説明することもあることだろう。

つまり、「本物だ」と認識させることがCGにおける表現の最終ゴールなら、それは「本物を再現するだけでは不十分」なのである。場合によっては、「本物を超える」、つまり「人間の感覚値に寄せていく」という作業が必要になる場合もある。

そして、それが成功した暁には、それはもう「CGという枠組み」を超えてしまっているわけだから、もはやCGとして認識できなくなる……。なんとも、禅問答みたいな不思議な話にはなってしまうが。
 
* 

「何が本物なのか?」という、本質を問う議論にもつながってくると思う。たとえば、テレビでよく見るアイドルがそのへんを歩いていたとして、それが本物だと感じるかどうか。

もちろん、「本人」であることに違いはないのだが、化粧もしておらず、テレビにも写っていないアイドルを「本物」と認識できるかどうか。

多くの人々にとって、「テレビに映っている姿」こそが「本物」であり、現実世界で見かけたとしても、本物と認識できないこともあるのではないか。
 
究極的には、「どう感じるか」がすべて、ということになる。心理学の分野になってくるのだろうか?

サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。