言葉を共有しても、世界の分断はなくならない

「Repezen Foxx」というYouTuber(音楽グループ)がいて、とある動画を見たのをきっかけに最近ちょこちょこ見ている。もともと「レペゼン地球」という名前で活動していたのだけれど、権利関係などをめぐってゴタつき、今はこの名前で落ち着いているらしい。

「世界一になる」ことを目標に、海外進出をしていることで有名だったのだが、あまり順調にはいかず、現在は日本で活動しているようだ。そのターニングポイントとなる時期の動画である。

世界進出の足掛かりとして、まずインドネシアに進出することにしたらしい。理由としては、インドネシアはものすごくたくさんの人口がいて、しかも若者が多いので、そこで一発当てればとんでもない数のファンが獲得できるから、という理屈らしい。

確かに日本の人口は1億人ちょっとしかいないうえに若者が少ないが、何億人もいる国で、しかも若者の数が多いところをゲットしたらかなりインパクトが大きいだろう。製造業などでそういう戦略をとる会社は多いが、YouTuberでそういった戦略はなかなかユニークである。

しかし、上記の動画によれば、インドネシア人に向けた動画は、インドネシア人には全然届かず、日本人にとってはインドネシア人向けの動画で面白くない、という「良いとこ取り」ならぬ「悪いとこ取り」だったらしい。

誰にとっても面白くないというジレンマに陥っていて、動画にインドネシア語の字幕をつけたりもしていたのだが、それもやめるのだという。これを見て、大変なことに挑戦してたんだなあと感心しつつも、「見えない世界」について考えるきっかけになった。

人が触れる情報は限られている。Twitter(X)などを見ていても、自分のところに流れてくるのは自分に関心のある情報だけだ。国内でも自分に関心のない情報はほとんど流れてこないのだから、国外となればなおさらだろう。

僕はたまに、「いかに自分の知らない世界があるか」を確認するため、海外のニュースサイトに行ってGoogle翻訳で記事を読んだりする。普段日本のニュースサイトばかり見ているが、たまにインドとかフランスとかのニュースサイトに行ってGoogle翻訳で内容を見てみると、知らないことだらけで結構面白かったりする。

その国にいないとわからないようなローカルネタは、固有名詞がとにかくなじみのないものばかりなので、言っている意味が全くわからない。現地に駐在している人などはそういうニュースをみたりもするのだろうけれど、なんのゆかりもない日本人にとってはちんぷんかんぷんである。

Google翻訳などの自動翻訳がかなり発達したので、今では海外に行っても、スマホさえあれば困る事は少ないだろう。僕も東南アジアに行った時、英語の通じにくい場面では非常に重宝している。

しかし、ハイコンテクストなコンテンツというのはまだまだ存在していて、同じインターネット空間にあるとはいえ、概念さえ共有されない情報はたくさんあるんだなあ、と思った。

例えば今僕が書いているこの文章も、完全に日本に住む日本人向けに書かれていて、たとえ日本語が読める外国人がいたとしても、この内容を面白いと思って読む人はほとんどいないのではないだろうか。全然意識していないことだが、僕は知らずのうちに日本人向けに文章を書いていたのである。

同様にドイツやイタリア、メキシコ、ジンバブエなどでも、自国の、同じコンテクストを共有している人向けに書かれた文章は必ずあるはずで、そう考えると世界の広がりを感じる。

国境を跨ぎにくい分野として、「漫才・コント」があるのでは、と思っている。「Mr.ビーン」などのコメディは国境を跨ぐが、漫才やコントの面白さはなかなか外国人には伝わりにくい。以前、外国人に「東京03」のコントを見せたことがあるのだが、全然面白さが伝わらなかった。

「東京03」のコントは、日本人の実在していそうな人物を少し誇張してコントに仕立て上げているが、外国人にとってはその部分の誇張具合に「あるある」を感じず、あまり笑えない、ということらしい、

先日、芸人の「とにかく明るい安村」が外国で持ち芸を披露して大ウケしていたが、ああいったものは万国共通なのかもしれない。

どれだけ言語が翻訳される精度が上がったとしても、世界は絶対にひとつにはならないだろうと思った。どんなに世界がグローバルになっても、ローカルで消費されるハイコンテクストな情報はなくならないのだ。

国境を越えやすいのは、絵や音楽などの芸術だろうか。そう考えると、完全に日本人向けに作られているはずのアニメや漫画が、外国でもウケているというのはなかなか面白い現象である。何か普遍性があるのだろうか。

漫画「進撃の巨人」は、香港の学生に絶大に支持されているのだという。「進撃の巨人」は、「壁」に囲まれた世界で巨人たちと対峙するストーリーだが、その「壁」と「巨人」は、香港人からみた中国本土になぞらえてみられているようだ。

だが、もともと作者の諫山創は大分の田舎を取り囲む山々を「壁」だと感じていたようで、着想もそこから、ということである。そういったものを創作に昇華して、世界の人々の共感を得た、ということだろうか。


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